【その4】
桜花

233: 名無しさん 2001/04/13 21:32
和田稔(人間魚雷「回天」特攻隊員・家族あての遺留ノート、1943.10.3) 

昨日兵役の細目が発表された。 

若菜(妹)、私は今、私の青春の真昼間を私の国に捧げる。 

私の望んだ花はついに地上に開くことがなかった。とはいえ私は、私の根底からの叫喚によって、きっと一つのより透明な、より美しい大華を大空に咲きこぼれさすことが出来るだろう。 

私の柩の前に唱えられるものは私の青春の挽歌ではなく、私の青春への頌歌であってほしい。

※和田稔:
1945年7月25日、山口県の回天特別攻撃隊光基地沖にて、訓練中に行方不明となり、殉職とされる。事故の際、底に突っ込んだままであった和田の回天は、終戦後の9月半ばの台風によって浮上漂流。潮流にのって近くの長島に流れ着く。

米占領軍の監視下で、その回天は旧日本兵の手で開けられ、蓋を開けると白い二酸化炭素の煙が浮上。その下にあぐら姿で眠っているかのような和田稔の姿があった。

窒息するまでの10時間以上を一人、狭く、薄暗く、寒い回天の中で過ごし、その間、3日分の食料を全部食い尽くしていた。遺体は長島の浜辺で荼毘にふされ、白木の箱となって沼津に帰郷している。享年23歳。(wiki:和田稔)

271: 名無しさん 2001/04/17 19:17
山口のテレビ局が作った人間魚雷回天の話は泣けた。 

学徒出陣の少尉が、伊号潜水艦に載せられて高知沖に行くんだけど、「足摺岬を右舷後方に見る。本土もこれで見納めか」 という日記のセリフはジンときた。結局悪天候で攻撃はあきらめ、基地に帰役。死を覚悟していた少尉は真っ青な顔をしていたという。 

その後少尉は訓練中、自分の艇が調子が悪く他の艇で潜行訓練を行い、そのまま浮かんでこなかった。戦争はその2ヶ月後に終わった。戦後、少尉の艇は近くの島のの砂浜で発見された。中に少尉の遺体があった。少尉は目を閉じ、じっと座ったままの姿で発見された。 

「私の艇で少尉は死んだんです。少尉の最後の潜行は、本当に見事な潜行でした」と涙をこらえて語る戦友の姿には感動した。 

少尉にはたしか葉子という妹さんがいて、その妹さんが兄の足跡を尋ねる、という形式だったんだが、本当に感動した。

※おそらく上記の和田稔海軍少尉のことと思われます。

234: 名無し 2001/04/13 21:52
林市造(カミカゼ特攻隊員・1945.3.31・最後の手紙) 

お母さん、とうとう悲しい便りをださねばならないときがきました。(略) 

晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思うと泣けて来ます。母チャンが私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることが出来ずに、安心させることもできずに死んでゆくのがつらいです。(略) 

母チャン、母チャンが私にこうせよと言われたことに反対して、とうとうここまで来てしまいました。私として希望通りで嬉しいと思いたいのですが、母チャンのいわれるようにした方がよかったかなあと思います。 

でも私は技倆抜群として選ばれたのですから喜んでください。私ぐらいの飛行時間で第一線に出るなんかはほんとうは出来ないのです。(略) 

ともすれば(略)お母さんの傍にかえりたいという考えにさそわれるのですけれど、これはいけない事なのです。 

洗礼を受けた時(略)アメリカの弾にあたって死ぬより前に汝を救うものの御手によりて殺すのだと言われましたが、これを私は思い出しております。すべてが神様の御手にあるのです。 神様の下にある私たちにはこの世の生死は問題になりませんね。 

(略)私はこの頃毎日聖書をよんでいます(略) お母さんの近くにいる気持ちがするからです。

私は聖書と賛美歌と飛行機につんでつっこみます(略)お母さんに祈ってつっこみます。

(略)出撃前日

※林市造:
1945年(昭和20年)4月12日出撃し、沖縄沖にて散華。享年23歳。

236: 名無しさん 2001/04/13 23:51
特攻に行く時の気持ちってどんなんだろう・・・想像を絶する・・・想像できない・・・特攻隊員の遺書は辛すぎる・・・

237: 名無しさん 2001/04/13 23:53
やっぱかあちゃんに何とかして欲しいと思うんだろうな・・・かあちゃんは一番の味方だからな・・・。 

ここ読むの止めます・・・辛すぎる・・・・。

241: 名無しさん 2001/04/14 01:26
それより特攻隊員が辛いのはもちろんだが、遺書送られてきた方も辛い。

素直に合掌…。

242: 名無しさん 2001/04/14 08:35
上の方にも書いてあったが、当時の大学生の高い教養レベルに脱帽。

死ぬべきではない人間が逝き、彼らを死なせた奴らどもがのうのうと生き残ったことに怒りを覚える。 

245: 名無しさん 2001/04/14 23:24
何かで読んだ医者(?)の本のエピソード。満州だったと思う。 

ある兵隊さんが負傷して帰ってきた。負傷は主に顔面で、下顎は完全に破砕され原型を留めていなかったが、それでも生きて戻ってきた。 

まもなく妻と小さい息子が見舞いに来た。二人が病室に入ってしばらくして悲鳴が聞こえ、息子が「鬼だ、お父さんが鬼になった」と泣きながら出ていった。 

この時の父である兵隊さんの気持ちを思うと…やりきれない。 

246: 名無しさん 2001/04/14 23:39
>>245 
悲しすぎる・・・。

248: 名無しさん 2001/04/15 02:18
>>245 
う…切ないっす…。

247: 名無しさん 2001/04/15 01:23
知覧鎮魂の賦

一番下にある絵なんだけどさ、皆どう? 悲しい日の丸だ。
ttp://www.town.chiran.kagoshima.jp/peace_museum/heiwa2.html 

知覧鎮魂の賦
紅蓮の炎をあげて燃える隼の機体から特攻隊員の魂魄を6人の飛天(天女)が救い出し昇天させる姿を表したもの。

522: 名無しさん 2001/05/21(月) 07:45
>>247 
恐ろしく美しいが、悲しいとしかいえない日の丸だね。
 
泣いた。

269: 名無し 2001/04/15 21:55
>>247 
確かこの絵、知覧特攻平和会館の入り口にあるはず。 

はじめにこの絵を見た瞬間、泣きそうになったよ。ほんと切ないというか、やりきれないというか・・・。んでもって中で隊員の遺書を読んでたら思わず涙してしまった俺。 

253: 名無しさん 2001/04/15 16:12
野中五郎少佐の話 

久保田勇中尉ら3名の搭乗員が着任した時、指揮台にあがった野中は、はるか遠くに目を転じながら、「見渡すかぎりの搭乗員、遠路はるばるご苦労…」と言って指揮台から降りたが、そのとき隊長の目にうっすらと涙が浮かんでいたという。 

3人はど肝を抜かれたが、あとで考えると、亡き搭乗員を偲ぶ指揮官の心情とともに、わずか3名の搭乗員に寄せるなみなみならぬ期待を汲み取ることができたと述懐している。

安芸一穂は小説の中で、野中少佐に文字通り「見渡すかぎりの搭乗員」を部下として与えていた。

そのシーンのためだけに買ったなぁ。

※野中五郎:
1945年(昭和20年)3月21日、第721航空隊の陸攻(母機)18機に「桜花」15機を搭載した第一神風特別攻撃隊神雷部隊に出撃命令が下され、野中は指揮官として出撃。野中は出撃の際に「戦わんかな最後の血の一滴まで、太平洋を血の海に」と隊員に訓示を行った。

アメリカ第58機動部隊に攻撃を仕掛けるが、遥か手前で迎撃戦闘機によって襲撃され全機撃墜、全滅。野中は戦死した。二階級昇進で海軍大佐。享年34歳。(wiki:野中五郎)

254: 名無しさん 2001/04/15 16:14
死んでも喇叭(ラッパ)を離しませんでした~って誰の話だっけ?

258: 名無しさん 2001/04/15 17:37
>>254 
それは日清戦争での木口小平の話ですが、さらに泣ける話として、始めは白神源次郎と発表されて、彼の名は教科書や歌になり、源次郎の遺族には続々お見舞いが届いたそうですが、実は「喇叭を離さなかった」のは木口小平の方で、彼は単なる事故死だったと報道されたのです。 

その後、源次郎の遺族は、世間に隠れる様に暮らしたそうです。

※木口小平:
1894年(明治27年)6月27日、清国軍と成歓で対峙した際、戦闘中に木口は突撃ラッパを吹いている最中に被弾。銃創により出血し倒れ、絶命した後も口にはラッパがあったという。享年21歳。

259: 名無しさん 2001/04/15 17:46
日露戦争の旅順閉塞作戦で、広瀬中佐が「杉野はいずこ~」と探しているうちに戦死してしまいましたが、その杉野氏は実は生きていたそうで。

260: 名無しさん 2001/04/15 17:48
>>259
え!初めて聞きました。

261: 名無しさん 2001/04/15 17:50
>>260 
マジです。5年くらい前、文春だったか諸君だったかに書いてました。

262: 名無しさん 2001/04/15 17:57
良かったんだか悪かったんだか。 

多分、部下思いの広瀬中佐は喜んでいただろうが。

263: 名無しさん 2001/04/15 17:58
平成になってからやっと明らかになったぐらいですから、杉野家は肩身の狭い思いを強いられ続けたんでしょうな。

※広瀬武夫と杉野孫七:
1904年(明治37年)3月27日、日露戦争の第二回旅順口閉塞作戦で、広瀬が指揮していた福井丸は敵駆逐艦の魚雷を受けた。撤退時に広瀬は、自爆用の爆薬に点火するため船倉に行った部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)がそのまま戻ってこないことに気付いた。

「杉野はいずこ~!杉野はいずこ~!」

広瀬は杉野を助けるため一人沈み行く福井丸に戻り、船内を3度も捜索したが、彼の姿は見つからなかった。やむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。即日中佐に昇進。享年37歳。(wiki:広瀬武夫)

※杉野孫七生存説:
死体が発見されなかったことから生存説がその死の直後から流れていた。日本人が多く暮らした満州では特にその手の噂が多く、特務機関に所属していたという説もある。

終戦後の1946年から1947年には、新聞やニュース映画で「杉野兵曹長生存」が報じられた。捕虜から帰国した日本人の話として、「爆発後、漂流していたところを現地人に助けられ、帰国しようとしたが軍神扱いされて帰るに帰れず、そのまま現地に定住した」というものである。

仮に生存していたとしたら当時で既に80歳を超えており、またその後の続報もなかったことから、単なる噂の範囲内と思われる。(wiki:杉野孫七)

272: 名無しさん 2001/04/17 19:22
米国議会図書館に保存されていた、氏名不詳の陸軍兵士日記。 

児島ノボル著「天皇と戦争責任」(文春文庫)収蔵「ある日本兵士の日誌」より。※(カッコ内は筆者の換字、又は註記)読みにくいかも知れないけど、我慢して読んでね。 

(昭和)十七年十二月二十八日 
朝○時三十分きしょ(起床)福山二時二十分出発。糸崎にてめんかいしました。三時二分に糸崎出発。広島(二字不明)めんかいじょう(面会場)に六時三十分につきました。 

皇(行)軍で(来)ました久市兄上にがいせんも(凱旋門)であいました。宇品にて十四時二十分に次太郎兄上にヨシエさんめんかいしました。宇品十五時四十分にて出発、十六時二十分に舟にのりました。舟十八時三十分に宇品出発、宮島神社に(以下数字が消去) 

(十二月)三十一日 
朝佐木わん(佐伯湾か?)を七時三十分出発、十四時より衛兵にでました。十七時ごろ九州島がみえなくなりました。 

昭和十八年一月一日 
衛兵りかばん(原文まま)をしてをりました。一時四十分てきせんすいかん(敵潜水艦)みえました。みな(皆)でました。なみ(波)わ(は)あまりなく衛兵より十四時にかい(帰)りました。 

(一月)十二日 
朝○時四十分にラバウルわんにつきました。朝七時にを(起)きました。舟五十セキを(居)りました。 

十五日 
朝四時より皇(行)軍しました。七時よりだいきゅうし(大休止)をしました。十五時よりやまのなかを皇(行)軍しました。二十二時三十分に西ぼうえき(西貿易店?)につきました。第六十三部隊しょねんへい(初年兵)の家にとまりました。 

十九日 
朝五時にを(起)きまして中隊本部しえき(使役)をしました。十四時より雨がふりました。二十日朝四時ごろ、ラバウルに敵機ばくげき(爆撃)にきました。 

二十一日 
(朝)五時に(起)きまして七時三十分(以下三文字不明)部隊本部にゆき、けいき(軽機)をもってかい(帰)りました。十三時より山にたきぎをとりにゆきました。二十二時より敵ひこうき(飛行機)がラバウルにきました。 

三十一日 
朝五時にを(起)きまして山にいも(芋)をとりにゆきました。中隊十三時よりえんしゅ(演習)をしました。 

二月十四日 
朝二時より敵き(機)ばくげきにきました。ちじょうさげき(地上射撃)ばく五き(爆撃機五機か?)を(墜)としました。(一字不明)軍らんやくこう(弾薬壕)第二号をか(丘)に(爆弾が)を(落)ちました。戦死十七にん(人)をりました。七時に第二号(に)ゆきましてみました。 

(三月)十日 
(朝)六時より第五号行(き)ましてたま(弾丸)をあ(揚)げました。黒ひめ(姫)丸。 

十一日 
(朝)六時より第八号ゆきまして、ニュギニヤに行く舟奉公丸にたま(弾丸)、をりたたみ(折畳み)舟を(お)よび米、ビイル、さいだ(サイダー)をつみました。 

(四月)二十六日 
マナ(ラ)リヤのけつえき(血液)のけんさのためにやすみました。 

(四月)二十八日 
さぎょう(作業)わ(は)やすみました。はたけをこさえました。九時ごろ雨が降りました。ばらばらと降りました。 

五月一日 
四時三十分を(起)きましてさぎょう(作業)わ(は)やすみました。ねつ(熱)がでて衛兵わ(は)大出君かわりに出ました。九時二十分ごろ雨あがりました。十四時にねつ(熱)がでました。二十時ごろ雨降りました。 

(五月)七日 
(朝)四時三十を(起)きました。七時中隊長(二字不明)しました。やすみました。ゆめに西父上母上、兄久市ゆめみましたよ。 

(五月)八日 
やすみました。マナ(ラ)リヤがよくなりましたが、またまたテ(デ)ングねつ(熱)になり、ねつ四十一ド(度)でました。 

(五月)十一日 
今日朝ねつがでて、くるしくありました。 

(五月)十六日 
今日きぶん(気分)がよくなりて、朝せんたく(洗濯)に行き、畑にも行きました。十五時雨降りました。夕雨あがりました。 

七月二十日 
今日作業休(み)でした。せん(先)発わ(は)でました。中隊(三時不明)八郎ほか六人亡(くなり)ました。 


ここで日記は終了。



282: 名無しさん 2001/04/17 23:03
>>272 
俺、そういうのに弱い。

290: 名無しさん 2001/04/18 11:50
>>282 
そうそう。

文章のボギャブラリーが少ない分想像力を刺激するし、それを飛び越えてきた言葉にグッと来ちゃうんだよな。「ばらばらと降りました」とか「ゆめみましたよ」とか「くるしくありました」とか。 

マジで鼻ツーンと来ちゃったぞ。

296: 名無しさん 2001/04/19 20:45
>>290 
多分マラリアかなんかで・・・苦しかったろうに・・・(涙。  

将校と違って徴兵された市井(しせい:一般市民)の人でしょう。 切ない・・・。