桜花

174: 名無し 2001/04/08 11:30
水上特攻に出た大和以下第二艦隊とすれ違った日本輸送船とのやりとり。 

数隻の小輸送船団「御成功祈ル」 

大和「ワレ期待ニ背カザルベシ」

180: 名無しさん 2001/04/09 21:53
>>174 
号泣 。

※戦艦大和:
海上特攻とは、大和以下の艦隊を沖縄本島に突入させて艦を座礁させたうえで、固定砲台として砲撃を行い、弾薬が底をついた後は乗員が陸戦隊として敵部隊へ突撃をかけるという生還を期さない特攻作戦。大和はこの任を受け沖縄に向かうも、1945(昭和20年)年4月7日、九州坊ノ岬沖にて米軍機の攻撃を受ける。

12時45分 左舷前部に魚雷1本命中。
13時37分 左舷中央部に魚雷3本命中、副舵が取舵のまま故障。

13時44分 左舷中部に魚雷2本命中。
13時45分 副舵を中央に固定。応急舵で操舵。

14時00分 艦中央部に中型爆弾3発命中。
14時07分 右舷中央部に魚雷1本命中。

14時12分 左舷中部、後部に魚雷各1本命中。機械右舷機のみで12ノット。傾斜左舷へ6度。
14時17分 左舷中部に魚雷1本命中、傾斜急激に増す。

14時20分 傾斜左舷へ20度、傾斜復旧見込みなし。総員上甲板(総員退去用意)を発令。
14時23分 大和が完全に転覆。爆発を起こし、艦体が二つに分断されつつ沈没。死者2740名、生存者269名。

大和爆沈の様子
506px-Explosion_of_the_battleship_Yamato
(wiki:大和

159: 名無しさん 2001/04/06 23:33
南方総軍からの死守命令(玉砕命令)を受けたミイトキーナ守備隊指揮官、水上源蔵少将の最後の作戦命令文。 

「ミイトキーナ守備隊ノ残存シアル将兵ハ南方ヘ転進ヲ命ズ」 


部下将兵を助けるためあえて抗命をした水上少将は、部隊がイラワジ川を渡河し、撤退を見届けた後、自決。 

明治二十一年山梨県出身 
陸士二十三期 

※水上源蔵:
1944年(昭和19年)8月4日、ビルマ、ミイトキーナにて自決。死後、陸軍中将に進級。享年55歳。

160: 名無しさん 2001/04/06 23:43
>>159
ミートキナってたしか残った日本兵が、圧倒的なはずの中国軍にしこたま損害を与えた後全滅。後々中国の将軍か誰かが、部下に対し「ミートキナの日本兵を見習え!」って檄を飛ばしたはず。 

詳しく知ってる人頼む。

161: 名無しさん 2001/04/06 23:51
>>160 
いわゆる蒋介石の逆感状ですね。 

429: 名無しさん 2001/05/11 14:22
>>160>>161 
蒋介石総統 逆感状 
光人社刊 相良俊輔著 初版 昭和47年5月20日 当時820円 
「菊と龍」より 

全軍将兵に与う。戦局の動きは我に有利に展開しつつあり。勝利の栄光は前途に輝いているものの、その道に到達するまでは、まだなお遠しといえる。各方面の戦績をみるに、予の期待にそむくもの多し。

諸兵、ビルマの日本軍を範とせよ。拉猛において、騰越において、またミートキーナにおいて、日本軍が発揮した勇戦健闘ぶりを見よ。

それに比し、わが軍の戦績の、いかに見劣りすることか。予は遺憾にたえざるものなり・・・将兵一同、一層士気を昂揚し、訓練に励み、戦法を考案し、困難辛苦に耐え、強敵打倒の大目的を達成せんことを望むものである。

177: 名無しさん 2001/04/09 12:53
デルタフォース隊員が敵地に取り残された。ペンタゴンは救出部隊を送り込まなかった。 

デルタフォース指揮官マシュー・クエンティン・シェパード少佐が、明らかな越権行為をしながらもヘリと一個小隊を送り込み(+自分)、取り残された隊員を救出した。しかしペンタゴンは、この越権行為への処分として少佐の辞表を受け入れた。 

少佐が基地を後にするとき、ジープのドライバーの軍人が少佐に敬礼をした。

「なぜ民間人に敬礼をする」 

そしてジープに乗り込み、走った。そこには少佐を慕っていた50人近くの兵隊が花道を造っていた。その真ん中を少佐が乗ったジープがゆっくりと走る。兵隊が一斉に敬礼をした。ジープに乗っていた少佐も敬礼をし、兵隊も手をおろした。

その後拍手の嵐と少佐を慕う声が響いた。

190: 名無しさん 2001/04/10 03:24
>>177 
SOF?

※この話が独り歩きして、史実、実際にあった話とされているサイトがたくさん出てきましたが、「S.O.F. Soldier of Fortune(ソルジャー・オブ・フォーチュン)」という海外ドラマの話です…。

181: 名無しさん 2001/04/09 22:19
「ガダルカナル学ばざる軍隊」NHK取材班
 
陸軍軍医吉野平一中尉の日記より 

昭和十六日十二月十六日
懐かしの仙台をあとにして征途にのぼりしよりの記、我亡きあとに此の記を妻房子に送る(ママ) 

昭和十七年九月五日
午前二時頃、敵飛行機上空に飛来するも無事。上陸最初の朝食を採りて壕を掘りつつある時、敵戦闘機一二機編隊にて飛来す。夜は雨に悩む 

九月六日
午前三時起床、四時半出発。前夜の雨に悪路となった路とは名ばかりの小路を前進、橋なき河を腰までぬらして行く、背嚢は十日分の糧食で肩に食い入り苦しい。 

九月九日
午前二時三十分出発、約九千キロと予定せられるジャングル地帯の前進開始せらる。 

九月十日
今日もまた密林内の前進か、食事は出来ず乾パンをかじる、水も少ない。我々は道なきジャングル草原を進む、米を食わないので身体の力がぬけるようだ、しかし進まねばならない。夜に入りジャングルに入り非常な苦労をし、遂に前進不能となり密林中に寝る。 

九月十一日
午前三時半起床、四時出発。再び密林内を進む、南西に向い前進だ。朝食は米なく乾パンを歩きながら食す、身体の力が抜けて来る、苦しい、水もなくなる。密林中、水たまりにあらそいあつまりすする、きたないが仕方なし。今日の密林はすごい。

昼間も乾パンだ、重い思いをして持ってきたミルクをあけて飲む、ああこの甘味さ、水が欲しい水が欲しい、何故ないのだろうか。密林中をさまよい歩く、足もおぼつかない。夜は腰から下ビショぬれの為安眠出来ず。 

九月十二日
最后の日となる、いよいよ夜襲決行の日だ。これより行軍との事で早朝四時出発、ジャングル内を前進す、午后四時になるも目的地に達する事出来ず、八時攻撃開始に間に合う如く全力をつくし暗夜のジャングル地帯をはう如く前進、いばらにさされ木の根に転倒し名伏し難き苦痛をし、遂に部隊との連絡なくなる。 

九月十三日
敵飛行場付近に砲火しきりにあがり物すごし。午前二時、本部に追及すべく星明かりをたよりに前進、川口支隊渡辺部隊の重火器隊に会し前進せんとせしが、昨夜の夜襲不成功との事で第一線后退し前進不能となり后退。上空に常に敵飛行機あり、身辺には敵小銃弾飛来す。 

日記はここまで。後は空白……。 

182: 名無しさん 2001/04/09 22:24
>>181
戦争はするもんじゃねーな(特に補給無視のは)。

200: 名無しさん 2001/04/11 00:10
「桜花」特別攻撃隊・緒方襄命 

死するとも なほ死するとも 我が魂よ 永久にとどまり 御国まもらせ 

忘れられない一句です。 

388: 名無しさん 2001/05/09 16:56
>>200
母親にこっそり渡した辞世の句も泣ける。 

いざさらば 我は御国の 山桜 母の身元に かへり咲かなむ

※緒方襄:
1945(昭和20年)年3月18日、日本軍は初の桜花の実戦投入を行うも、桜花15機を搭載した第721海軍航空隊所属第1神風桜花特別攻撃隊神雷部隊の一式陸上攻撃機18機全機が、米艦上戦闘機群に捕捉されて撃墜された。享年23歳(wiki:九州沖航空戦)

203: 名無しさん 2001/04/11 01:47
このスレのどの書き込みを読んでも思うのですが、なぜに人は死を目前にしてそのような詩や遺書を書けるのでしょうか。 

ただ涙です。

212: 名無しさん 2001/04/12 04:39
今の日本を夢見て逝った訳では無いだろうに・・・。
 
彼らも含めて無くしたものが多すぎる。

216: 名無しさん 2001/04/12 11:23
中学生の時じいちゃんと一緒に、「少年飛行隊」の同期会に参加した時、一人の老人と話した内容です。 

その方は戦時中、5機ものアメリカ爆撃機を撃墜した戦闘機乗りだったそうです。 僕は話に混ざりたくて、「すごい、すごい」「勲章もいっぱいもらったんでしょう?」と興奮気味に話していました。

すると老人は寂しそうな顔をして「何人もの人を殺した勲章なんか欲しくない・・・」 う言ったきり黙ってしまいました。 

そんな内容の事を、面白げに興奮していた自分に恥ずかしくなり、下を向いたまま涙が止まりませんでした。 

大好きだったおじいちゃんが元気だった、10年以上も前の話です。 

218: 名無しさん 2001/04/12 15:29
このスレ見て思ったんだけど、「特攻」なんて簡単に使う珍走団は確実に馬鹿だね。奴らが「特攻」と言う単語を使うのはなんか許せない。 

関係ない話すまん。

222: 名無しさん 2001/04/12 15:57
>>218 
それは俺も思う。

219: 名無しさん 2001/04/12 15:35
昭和20年8月14日、日吉総隊司令部の長官室では軍令部次長、大西瀧治郎中将が連合艦隊司令長官、小沢治三郎中将に徹底抗戦を主張、決断を迫った。

「これ以上抗戦を説いて何になる。死ぬのは兵隊ばかりではない。陛下も、国民も、みんな死ぬんだぞ…」 

翻意は不可能なのを悟って退出しようとする大西中将を、小沢長官は呼び止めた。

「大西君、死ぬなよ。けっして死ぬなよ。死ぬ思いで戦争の後始末をするんだ。それが生き残ったわれわれの仕事なのだ」 

だが大西中将をはじめ、将校の自決が相ついだ。小沢長官は幕僚を集めて言った。

「君たちはけっして腹を切ってはならんぞ。みんな死んだら、誰がこの戦さの後始末をするのか、死んではならん。俺も死にはせん」

※大西 瀧治郎:
神風特別攻撃隊の創始者の一人。上記の出来事から2日後、終戦翌日の1945年8月16日、大西は遺書を残し割腹自決した。「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書は、自らの死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝すとし、また日本の復興、発展に尽くすよう諭した内容であった。辞世の句「これでよし 百万年の 仮寝かな」。享年55歳。(wiki:大西 瀧治郎)

なお、小沢治三郎は自身の言葉通り自決せず、1966年(昭和41年)11月9日、80歳で大往生。

225: 名無しさん 2001/04/12 21:04
中国やアメリカとの間に戦争があったことさえ知らない若者が増えてると、何かで聞きかじったときは心底ボーゼンとしました。 

だからってその人たちを単純に非難する気はありませんが、自分たちの歴史を教えない、あるいは歪めて伝えようとするナニモノかには強い憤りを感じます。 

ここにあるような悲惨な時代があった事を知ったうえで、それとどう向き合うかは個人の自由ですが、そういう時代があった事さえ知らない、他人の苦しみに涙することのない人が増えていることと、昨今の少年犯罪とか幼児虐待とかの悲惨な事件が増えていることとは、どこかでつながっているような気がします。 

話がちょっとずれたかも知れん。あやまるぞ。 

226: 名無しさん 2001/04/12 23:32
知覧より出撃した特攻隊員の遺書 

母を慕いて 

母上様御元気ですか 
永い間本当に有難うございました 
我六歳の時より育て下されし母 
継母とは言え世の此の種の母にある如き 
不祥事は一度たりとてなく 
慈しみ育て下されし母 
有難い母 尊い母 
俺は幸福であった 

ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺 
幾度か思い切って呼ばんとしたが 
何と意志薄弱な俺だったろう 
母上お許し下さい 
さぞ淋しかったでしょう 
今こそ大声で呼ばして頂きます 
お母さん お母さん お母さんと

(ノート二頁に楷書ペン書) 

※相花信夫:
1945年(昭和20年)5月4日、第77振武隊として知覧飛行場より出撃。遺書にもあるよう相花の母は父親の後妻であり、継母であった。享年18歳。

227: 名無しさん 2001/04/13 01:59
>珍走団 

特攻とはこういうモノなのですよ。貴様らのお遊びとは違うのですよ。 

彼らの出撃する前の遺書を読んでわかりますよね? 彼らを待ってるのは確実な死だけ。そこいらのうるさいと注意したおっさんに特攻するのとわけが違うんですよ。 

少しでも脳味噌が機能するならば、理解するように努力しましょうね。 

229: 名無しさん 2001/04/13 15:46
>>227
...少しでも脳味噌が機能するならば、珍走団なんてやってないよね...。

母への遺書 沖縄特攻林市造
母への遺書 沖縄特攻林市造

230: 名無しさん 2001/04/13 20:01
「全部合わせてたった一人」てのがオチの文で泣いた事があるが、今手元に無いから誰か上げてくれ。

232: 名無し 2001/04/13 21:23
>>230 
宅島徳光(恋人・八重子あて、1944年3月頃) 

私自身の未来を私は予知することができない。そして私は私であっても、私の私ではない。

このことは賢明な君は良く理解してくれていると信ずる。もはや私は君一人を愛すること以上に、日本を、そして君を含めた日本の人々を愛している。 

君に会える日はもう充分ないだろう。あるいは永久にないかもしれない。


宅島(日記、1944.6.11) 
その時(戦死の時)のあるを覚悟して、俺はすべて身の回りを整えておきたい。このような俺の信念は、どうしても君を不幸にさせたくないということの考えに通じている。 

妻のただ一人の、最も信頼すべき味方は常に夫である。若くして夫を失った妻の将来はひじょうに不幸である。 

そのようなことが君の身に起こるということは、俺にとっても寂しい


宅島(日記、44.6.13) 
はっきりいう。俺は君を愛した。そして、今も愛している。 

しかし俺の頭の中には、今では君よりも大切なものを蔵するに至った。 

それは、君のように優しい乙女の住む国のことである。俺は静かな黄昏の田畑の中で、まだ顔もよく見えない遠くから、俺たちに頭を下げてくれる子供たちのいじらしさに強く胸を打たれたのである。 

もしそれが、君に対する愛よりも遥かに強いものというなら、君は怒るだろうか。否々、決して君は怒らないだろう。そして、俺と共に、俺の心を理解してくれるだろう。 

ほんとうにあのような可愛い子らのためなら、生命も決して惜しくはない。


宅島(日記、44.6.30) 
俺の言葉に泣いた奴が一人
俺を恨んでいる奴が一人 
それでも本当に俺を忘れないでいてくれる奴が一人 
俺が死んだらくちなしの花を飾ってくれる奴が一人 

みんな併(あわ)せてたった一人……


※宅島徳光:
1945年4月9日に、沖縄特攻作戦の開始により、松島海軍航空基地を一式陸上攻撃機の陸攻機長として出撃し、7機と共に宮城県牡鹿郡金崋山沖にて任務中遭難死。享年24歳。

163: 名無しさん 2001/04/07 00:33
これらのようないい話が、教えられることもなく忘れられていくのを黙って見ているわけにはいかない。 なんとかしましょう、みなさん。

173: 名無し 2001/04/08 11:08
全部読んだらまた泣けてきた。

【その5へ】