【その6】
桜花

327: 名無しさん 2001/04/29 02:21
山本五十六の参謀だった宇垣纏は、九州で神風特別攻撃隊を指揮していたが、玉音放送を聞き、部下への詫びと死に場所として、米軍占領下の沖縄へ彗星で特攻した。 

一緒に付いて行った者がかなりいたそうだ。

342: 名無し 2001/04/29 21:14
>>327 
宇垣中将の場合は賛否両論あるよね。

「一人で死ね」と言う者もいたとか。 

※宇垣纏(うがきまとめ):
1945年(昭和20年)8月15日早朝、宇垣は「彗星」を5機用意するように部下に命じ、11機の「彗星」が用意された。これに対し宇垣は「命令は5機」と発言したが、指揮所前には22名の搭乗員たちが整列しており、「出動可能機全機で同行する。命令が変更されないなら命令違反を承知で同行する」と答えた。

15日正午、玉音放送が発せられるも、宇垣は11機23名(途中3機が不時着、5名生存)で、沖縄沖に向かって大分基地から離陸した。宇垣機からは訣別電があり、続いて「敵空母見ユ」「ワレ必中突入ス」を最後に連絡は途絶えた。

アメリカ軍に被害はなく、宇垣の特攻隊は確認もされておらず、沖縄付近の海面に墜落したものと思われる。この特攻隊による死者は宇垣を含め18名。享年55歳。

宇垣纒
特攻直前に彗星の前で写真を撮った宇垣纒。(wiki:宇垣纏)

329: 名無しさん 2001/04/29 18:17
昭和二十年八月二十日、日本軍の厳命を受けた真岡電信局(旧樺太)に勤務する九人の乙女は、青酸加里を渡され最後の交換台に向った。 

ソ連軍上陸と同時に青酸加里を飲み、最後の力をふりしぼってキーを叩き、「・・・皆さんさようなら、さようなら、これが最後です・・・」の言葉を残し、夢多き若い命を自ら絶った。 

331: 名無しさん 2001/04/29 18:25
>>329 
殉職した九人の乙女

高石ミキ(24)、可香谷シゲ(23)、吉田八重子(21)、志賀晴代(22)、渡辺照(17)、高城淑子(19)、松崎みどり(17)、伊藤千枝(22)、沢田キミ(18)。 

みんな若い・・・。

332: 名無しさん 2001/04/29 18:34
もったいない。 

泣きたくなるほどもったいない…。

334: 名無しさん 2001/04/29 18:37
>>329 
九人の乙女 
http://www.yasukuni.or.jp/museum/daitoua/tenji10.html
※ウェブアーカイブより。

9人の乙女
最後まで職場を離れず電話交換に殉じた九人の乙女

猛火郵便局電話交換室
当時の真岡郵便局電話交換室(樺太)

北海道最北端の地、稚内。遥かに樺太をのぞむ丘の上に「氷雪の門」が立っている。この門は終戦時に非命に斃れた樺太島民慰霊碑である。この氷雪の門に寄り添うように「九人の乙女の像」がある。

高さ1.8メートル、巾2.4メートル、登別石の屏風状の碑には交換手姿の乙女像の銅版レリーフがはめ込まれ、「皆さんこれが最後です。さようなら さようなら」の最後の言葉が刻まれている。

「戦いは終わった。それから5日、昭和20年8月20日ソ連軍が樺太真岡に上陸を開始しようとした。その時突如日本軍との間に戦いが始まった。

戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向った九人の乙女らは、死を以て己の職場を守った。窓越しに見る砲弾の炸裂、刻々迫る身の危険、今はこれまでと死の交換台に向かい「皆さん これが最後です さようなら さようなら」の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。

戦争は再びくりかえすまい、平和の祈りをこめ尊き九人の乙女の霊を慰む」

これは、この碑の説明文である。

昭和天皇・皇后両陛下は、昭和43年9月2日札幌で開催された北海道百年記念式典に御臨席なられ、式典後北海道各地を御視察途次、同月五日「九人の乙女の像」の前にお立ちになり、稚内市長の説明を受けられた。

後日、昭和天皇はこの時の御感慨を次のようにお詠みになられたのである。

「樺太に 命をすてし たをやめの こころおもへば むねせまりくる」

同時に皇后陛下(皇太后陛下)よりも

「樺太に 露ときえたる をとめらの みたまやすかれと ただいのりぬる」

の御歌を賜っている。

この御製と御歌を刻んだ碑は、翌44年8月「乙女の像」の辺りに建立された。

8月15日。終戦とともに、樺太全土に婦女子ならびに13歳未満の男子に内地引揚命令が出された。

しかし当時、交換業務を直ちに男子に代替する準備が急速に整わないことを察知した交換手たちは、ほとんど全員自ら進んで残留を申し出た。互選の末通信確保のための最小限度20名が、決死隊として踏み留まることとなった。

8月9日、日ソ不可侵条約を一方的に破って参戦したソ連軍は、北緯50度の国境線を突破、怒涛の如く南下を開始した。そして8月15日。終戦。

しかしソ連軍の進攻はやまなかった。むしろその進攻に激しさを加えてきた。戦禍に追われた羅災者たちは長蛇の列をなし真岡の町をめざした。

8月20日、霧の深い早朝真岡の沖にソ連艦隊が現れ、艦砲射撃を開始した。街は焔に包まれ戦場と化した。上陸したソ連軍は海上の艦隊と呼応して砲火を浴びせつつ、町内に侵入してきた。

この時、高石ミキ電話主事補以下8名の宿直者と、20日、局からの連絡を受け応接のため登庁した志賀晴代電話事務員の計9名が局に居て交換台に着き、時々刻々の緊急情報連絡と交換業務に狂奔していた。

間もなく局の窓から迫るソ連兵の姿が見え、局舎に侵入して来るに及んで、万が一を慮
(おもんぱか)り服毒自決をとげたのである。

今日も「乙女の像」は真岡を望もうとするかのように立っている。だが多くの人はその事実を知らない。一人でも多くの人々がこの受難史を知り、彼女たちを始め樺太で散った多くの同胞たちの冥福を祈りたい。

彼女たちは昭和48年3月31日、戦歿者叙勲として勲八等宝冠章を授与された。

640px-Nine_maidens'_monument
(wiki:九人の乙女の像より)

337: 名無しさん 2001/04/29 18:42
泣ける、まじで…。

344: 名無しさん 2001/04/30 16:26
ソ連兵上陸直前、陵辱されるような状況で脱出の機会も絶望だと考え、毒物を渡したと思おう・・・。

348: 名無しさん 2001/05/02 10:01
本当の戦争の話というのは全然教訓的ではない。

それは人間の徳性を良い方向に導かないし、高めもしない。かくあるべしという行動規範を示唆したりもしない。また、人がそれまでやってきた行いをやめさせたりするようなこともない。もし教訓的に思える戦争の話があったら、それは信じないほうがいい。

もしその話が終わったときに君の気分が高揚していたり、廃物の山の中からちょっとしたまっとうな部品を拾ったような気がしたりしたら、君は昔からあいも変わらず繰り返されている酷い大嘘の犠牲者になっているのである。 

「本当の戦争の話をしよう」ティム・オブライエン(文春文庫)

350: 名無しさん 2001/05/02 12:07
>>348 
このスレを見てそういう文章を引っ張ってくるのは、君の無教養を顕著に表してるな。

オブライエンはそういう戦場の話を多く知っている上でその文章を書いているのであって、私はその意見には素直に耳を傾けるが、君のようなシッタカ君が安直に引っ張って来るのは怒りを覚えるし、また彼の文章を汚している。

352: 名無しさん 2001/05/03 05:56
>>348 
ティム・オブライエンはアメリカ人だよね? 

つまり勝った側にいたわけで、彼の言う「教訓的に思える戦争の話」と言うのはジョン・ウェイン的な「勝者の物語」の事を指しているのでは? 

このスレの趣旨は単に「戦争に巻き込まれた人々の悲劇を悼む」ことだと思ってますので、もしその文章の引用によって批判を試みているのであれば、それはただのお門違いという事になるのではないか、と考えますが。

353: 名無しさん 2001/05/03 05:59
>>352
「合衆国海兵隊大尉」と大書きしてあんだよね。

355: 名無しさん 2001/05/03 14:05
>>352 
オブライエンが従軍したのはベトナム戦争だから「勝った側」にいたわけではない。Fubar
(めちゃくちゃ)な戦争に教訓めいた話などない、という一兵士の素直な感想だと思うのだが、どうだろう。 

「本当の戦争の話をしよう」はある意味泣けるんだけどね…。

「泣くのはおよしなさい、ティミー。べつにたいしたことじゃないんだから」

本当の戦争の話をしよう (文春文庫)
ティム・オブライエン
文藝春秋
1998-02-01


364: 名無しさん 2001/05/04 22:24
レイテ沖海戦について、半藤氏のインタビューで本当にただ一言。 

小沢(連合艦隊司令長官)「西村君だけだ。本気で戦ったのは」 

「帝国海軍の興亡」(半藤一利)のまえがきより。 いきなり泣けた。

西村祥治:
1944年(昭和19年)10月25日、レイテ沖海戦にて第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊)の旗艦「山城」に座乗し、司令官として参戦。西村艦隊のみでスリガオ海峡に突入し、米軍にT字陣形で迎え撃たれた。享年54歳。(wiki:西村祥治)

372: 名無しさん 2001/05/05 17:16
包囲下でのレニングラードの話。 

ある人は、牛の角製のボタンを溶かしてスープを作った。ある人は、皮製品を煮込んでしゃぶり、おが屑と壁紙用の糊でホットケーキを作ったりした。 

ある提督は、豚皮の手提げ鞄を友人の妻に贈ったが、数日後「私はなんとか食べられるボーク・ジェリーが入っている箱を受け取った」という。 

この婦人は鞄の金具も一緒に送ってきた。金具はポーク・ジェリーに入ってない事を保証する為に。それに彼女がユーモア感覚を失っていない事も。 

空腹のあまり極端な行動に走る者もいた。

ある少女は、食料に替える為死んだ父親の金歯を抜いた。また、2人の子供は大人にこう言つた。 

「パパとママが死んだので、わたしたちとおばあさんとで死体を天井裏に隠して、今は3人で5人分の配給切符をもらっている」 

しかし、わずかな配給品を分けあう人々の話もあった。

ある男は、自分のその日の食料の分け前を妻に差し出した。自分は軍需工場で働いている報酬として、すでに余分の配給をもらったからと言って。

彼は日記に「生まれてはじめてエリザベータに嘘をついた」 と告白している。

374: 名無しさん 2001/05/06 15:15
野中五郎の子供への手紙

ぼー まいにち おとなちく ちてるか おばあちゃまや おじちゃまがいらっちゃるから うれちいだろう  

おたんじょうび みんなに かわいがられて よかったね おめでとう おめでとう 

おとうちゃまは まいにち あぶーにのって はたらいている 

ぼーが おとなちくして みんなに かわいがられているときいて うれちい 

もうちょろちょろ あるかなければいけない はやくあるきなちゃい 

おかうちゃまの いうことをよくきいて うんと えいようをとって ぢょうぶな よいこどもに ならなくてはいけない 

ちゅき きらいのないように なんでも おいちいおいちいってたべなちゃい 

でわ さようなら おとうちゃまより ぼーへ 


泣く…

375: 名無しさん 2001/05/06 18:35
>>374 
泣いた。 

いつのまにか野中大佐のお亡くなりになった年齢になっていた。大佐と比較して自分の情けなさにも泣けるが・・・。

※野中五郎:
1945年(昭和20年)3月21日、第721航空隊の陸攻(母機)18機に「桜花」15機を搭載した第一神風特別攻撃隊神雷部隊に出撃命令が下され、野中は指揮官として出撃。野中は出撃の際に「戦わんかな最後の血の一滴まで、太平洋を血の海に」と隊員に訓示を行った。

アメリカ第58機動部隊に攻撃を仕掛けるが、遥か手前で迎撃戦闘機によって襲撃され全機撃墜、全滅。野中は戦死した。二階級昇進で海軍大佐。享年34歳。(wiki:野中五郎)

380: 名無しさん 2001/05/07 11:16
戦争はするもんぢゃないね。(わかっちゃいるけど…)

390: 名無しさん 2001/05/09 22:48
特攻隊員の胸中もそれぞれですね。 

合掌。