【その5】
桜花

283:名無しさん 2001/04/17 23:05
沖縄防衛を担当していた第32軍の長参謀長と司令官牛島満。

…こうして最後の時が来た。はじめは「23日黎明を期して、全員、摩文仁(まぶに)方面に突撃し、この間に軍司令官、参謀長は山頂において自決する」と予定されていたが、摩文仁の山頂奪取は不可能と判断され、司令部洞窟の入口で、古武士の型をふんで切腹することになった。 

「閣下、私が先に行って、ご案内いたしましょう」と、一足先に坑外に出た長参謀長が、振り返りながら言った。 

「いや、私が先に行かしてもらうよ」 牛島はおだやかな微笑を浮かべていう。

「あ、なるほど、私では案内になりませんな。閣下は極楽行き、私は地獄行き。こう行き先が違っていては…」 

長は軽く声をあげて笑った…。 

※長勇(ちょう いさむ):
1945年6月23日未明、摩文仁丘の洞窟内にあった司令部で司令官の牛島満(享年57歳)とともに割腹自決。享年50歳。

273: 名無しさん 2001/04/17 19:43
シュエジン(ビルマ、おそらくインパール作戦での撤退時)の戦闘司令所に於いて。

牟田口中将 
「藤原、これだけ多くの部下を殺し、多くの兵器を失った事は、司令官としての責任上、私は腹を切ってお詫びしなければ、上御一人や、将兵の霊に相済まんと思っとるが、貴官の腹蔵のない意見を聞きたい」 

藤原参謀 
「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません。司令官から私は切腹するからと相談を持ちかけられたら、幕僚としての責任上、一応形式的にも止めないわけには参りません、司令官としての責任を、真実感じておられるなら、黙って腹を切って下さい。誰も邪魔したり止めたり致しません。心置きなく腹を切って下さい」 


(「軍事研究」2000年5月号、p156より一部抜粋)

274: 名無しさん 2001/04/17 20:27
>>273 
冷たい・・・冷たすぎる・・・部下からここまで言われて自決しない牟田口もクール?

275: 名無しさん 2001/04/17 20:39
>>274
クールというより最低最悪の無能男。参謀の言葉に「それみたことか」 って語感がにじんでますな。

そのころ軍は白骨街道で・・・(泣。

277: 名無しさん 2001/04/17 21:40
>>273 
教えて初心者で申し訳ないのですが、その牟田口中将って「顔色を見て察してほしかった」とかぬかした奴でしたっけ? 

そのあと、ちゃんと切腹したんでしょうか?

278: 名無しさん 2001/04/17 21:42
>>277 
「顔色」ねぇ…、本人はそうほざいていたが、どうみてもやる気満々の顔してたりして。 

長生きしてるしなぁ… 

279: 名無しさん 2001/04/17 21:55
>>278 
えっ?じゃあ結局、腹切らなかったのねん…うわぁ。

280: 名無しさん 2001/04/17 22:03
>>279 
戦後長々と「あいつが勝手に戦場を離脱しなければ云々」とかほざいていたそうな。

※牟田口廉也(むたぐち れんや):
1944年(昭和19年)のインパール作戦は、当初より軍内部でも慎重な意見があったものの、牟田口廉也中将の強硬な主張により決行された。補給線を軽視したずさんな作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫した。

4か月に及ぶ作戦が中止され、退却路に沿って延々と続く、蛆の湧いた餓死者の腐乱死体や、風雨に洗われた白骨が横たわるむごたらしい有様から「白骨街道」と呼ばれた。日本軍の総兵力約9万のうち戦死2万6千、マラリヤなどの戦病3万以上。

戦後、牟田口はインパール作戦失敗の責任を問われると、戦時中と同様「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と頑なに自説を主張していた。1966年(昭和41年)8月2日、気管支喘息・胆六嚢症・心筋梗塞治療中に脳出血を併発して死去。77歳没。(wiki:牟田口廉也)

285: 名無しさん 2001/04/18 00:25
舛添要一が「東大で『戦争学』と言う授業を教えようとしたら、『戦争』と言う言葉は困る、『平和研究』にしてくれってバカ左翼に言われた」 つうの思い出した。 

286: 名無しさん 2001/04/18 00:48
>>285 
泣ける・・・。

291: 名無しさん 2001/04/19 01:08
10年ぐらい前の終戦記念特集で、ニューギニアに日本兵の遺骨を収集しに行く番組をやっていた。

ジャングルに今でも散乱している水筒や弾薬。険しい山道を食料も休息もない撤退に、次々倒れていった兵士たちの骨。

ある骨は、小銃の引き金を足に銃口を頭に向けた状態で埋まっていた。極限の疲労に耐え切れなくなっての自殺だろうか。彼らの苦痛は想像を絶する。 

同じ番組で、日本軍に虐殺されたという原住民の親族が出ていた。ある老婆は「日本人は今でも謝罪も補償もしていないとあの世に行ったら報告してやる」 と言っていた。その村への虐殺を指示したという元将校が正体を明かさずに行き、慰霊塔の前で土下座していた。

戦争とはあらゆる者を不幸にするものだなと思った。 

295: 名無しさん 2001/04/19 20:40
佐多町にすむ、ばぁちゃんの話。 

毎日のように輸送船が兵士を満載し、戦場に向かう。しかし半分は潜水艦?に沈められ海の藻屑に・・・。 

「天皇陛下バンザイなんて誰も叫ばなかった。みんなお母さん、お母さんと叫びながら海に沈んでいった」と、辛そうに話してました。 

ばぁちゃんにできたことは、ただ手を合わせることだけだったそうです。 

298: 名無しさん 2001/04/20 14:56
流れ出る血の勢いに変わりなく 
鋭くえぐられた傷の深さに変わりなく 
血を吸った砂の赤さに変わりなく 
砕かれた軍靴はなおも血を流す 

でも賞賛の声は聞かれない 
彼の名は誰も記録に残さない 
かわいそうに、こいつが死んだのがアラメインでなく 
マヤーツァルバブであったばかりに。 


H.G.ハロウェイ

299: 名無しさん 2001/04/20 15:41
・・・こうして一般国民にはマラリアや赤痢についても、恐怖や厭戦気分、「神経症」についても知らされないままの状態が続く。

ごくまれに銃後のセンチメンタリズムと前線の即物的悲惨とが直接出会うことがあるが、その一例がヨーロッパで小銃小隊の指揮をとっていたチャールズ・マクドナルドの回想にあらわれている。 

口の達者な記者が戦地の奥深く入り、前線の兵士達に遭遇したときのこと。兵隊たちをつかまえては彼は軽い口調で「いまアメリカからいちばん送って欲しいものは何?」という質問を発する。

はじめ、返ってくるのはむっつりと不機嫌な視線と沈黙ばかり。しかしようやくひとりの兵が口を開く。 

「ちょっと言っておきたいことがある。ここはもう、笑い事じゃなく大変なんだと、ホットドッグやら 
ベイクトビーンズやらが懐かしいなんて言ってられないんだとぐらいは伝えてくれ。毎分毎分、兵隊が死んだり負傷していくんだ。惨めで、苦しくて、痛いんだと伝えてくれ。そちらでは絶対わからないくらい、笑い事じゃないんだと伝えてくれ・・・」 

と、ここまでしゃべったところで「この兵の喉から嗚咽が聞こえた」とマクドナルドは回想する。そして彼はさらに、聞きとりにくい、苛立った声でこう続けたという。 

「死ぬほど辛いって、すごく辛いって、伝えてくれ。笑い事じゃない辛さだって。それだけ。それだけだ」 


ポール・ファッセル著「だれにも書けなかった戦争の現実」(草思社・刊)P444より

300: 名無しさん 2001/04/20 15:47
>>299 
泣けてくる………滅茶苦茶重いよ。 

しかし、アメリカ兵を上回る悲惨さだった日本兵の方々を思えば……。

誰にも書けなかった戦争の現実
ポール ファッセル
草思社
1997-07-01


307: 名無しさん 2001/04/21 12:12
遺書ではないんだけど、ガダルカナルとインパールを転戦した元上等兵の手記中に出てきた戦死者は、どれも泣けた。

尾籠(
びろう:きたない)な話で申し訳ないけど、「赤痢にかかり下痢が止まらなくなり、最後は下半身丸出しで、ウンコまみれの手に妻と子供の写真を握ったまま道の脇で死んでいった」云々の描写があって、泣ける泣けないどころの話を越えて鬱になってしまった。 

たとえ一兵卒でも、家にいればそれぞれの「お父さん」だった人もいるわけで、自分の父がそうだったらと思うと、切なすぎて切なすぎて・・・(父が戦争に行った世代ではないけどね)。

506: 名無しさん 2001/05/18 20:57
>>307 
「最悪の戦場に奇蹟は無かった」高崎伝著ですね。 

この本は高崎氏の武勇伝的なものだからアレなんだけど、そのくだりは俺もかなりキタ…。 

最悪の戦場に奇蹟はなかった新装版 ガダルカナル、インパール戦記 (光人社NF文庫) [ 高崎伝 ]
最悪の戦場に奇蹟はなかった新装版 ガダルカナル、インパール戦記 (光人社NF文庫) [ 高崎伝 ]

311: 名無しさん 2001/04/24 02:06
「終戦」という言葉は、戦争を体験した人間にしか使う資格がないのではないか…と思ったりもする。

312:  名無しさん 2001/04/24 22:04
松原成信 氏 
昭和19年6月同志社大学経済学部在学中入隊 
昭和20年8月1日北京にて戦病死 23歳 陸軍兵長 

(友人宛て書簡から) 
頭の透明な時間は、ほとんどありませんが、それでもまばゆいくらいな一条の白いたていとがあるようです。 

生あらばいつの日か、長い長い夜であった、星の見にくい夜ばかりであった、と言い交わしうる日もあろうか・・・。


315: 名無しさん 2001/04/28 23:28
独ソ戦初期の1941年6月22日、ソ連・ブレストリトフスク要塞は敵地に孤立し、ドイツ軍は6月30日に制圧を発表した。しかしその後も少数の兵が地下にこもって、最後の一発まで戦い続けた。

やがて壁の落書きが発見された。書いた人物はわかっていない。 

俺は死ぬ。降伏などするものか。許せ故国よ。41・7・20 

316: 名無しさん 2001/04/28 23:41
>>315 
「我死す。されど屈せず。さらば我が祖国よ」

321: 315 2001/04/29 00:19
>>316 
まぢ?「バルバロッサ作戦(上)パウルカレル著 学研M文庫 P84」みながら書いてたんだけど。いろんな訳があるんかいな?リソースupきぼーん。

323: 名無しさん 2001/04/29 00:26
>>315 >>316 
昨年Nスペでやった「ロシア 小さき人々の証言」に、ブレスト要塞の生き残りの老人のエピソードがあった。

ブレストで捕虜になった兵士達は、戦後スターリンの失策を隠すため迫害され、人目を避けて生きなければならなかったそうだ。

スターリンの死後ようやく名誉回復がなされ、その老人も勲章をもらいシベリアに移住して鉄道建設に従事して祖国につくし、そのまま穏やかな余生を送っていた。

やがてソ連は崩壊し、物価の高騰で老人がもらっていた年金や貯金は紙くず同然になった。 

そしてある日、老人はちょっと旅行に出るという書置きを妻に残して列車に乗り、一週間後にブレストに着いた彼は駅で列車に飛びこんだ。 

老人の身に付けていた服から遺書のつもりだったのか、その言葉を書いた紙切れが見つかったそうだ。 

なんというか、祖国に尽くし、祖国に裏切られ、それでも祖国に尽くしつづけたのに、最後にその祖国自体がなくなってしまった老人の絶望と、どういうつもりでこの言葉を遺書としたのかを思うと泣けてくる。

324: 名無しさん 2001/04/29 00:31
1941年6月28日、ソ連兵アレクサンドル・ゴリコフの妻への手紙。 

愛するトネチカ。 

きみのもとへ届くかどうかわからないが、最後の手紙になることだけは確かだろう。 

戦いはますます激しくなっている。我々の戦車もやられてしまった。ファシストに完全に包囲されている。そこら中に死体がころがり、まるで大きなトカゲが無数によこたわっているようだ。ここは熱く、のどが乾く。 

僕は今、君の写真を膝の上に乗せて、その澄んだ瞳を見つめている。泣かないでおくれ、君は僕の墓に来ることはないだろう。いや、墓すらないかもしれない。 


ゴリコフはこの手紙を書いた日に戦死した。 

326: 名無しさん 2001/04/29 01:02
大井 栄光 
昭和20年東大理学部数学科卒業。13年9月入営。翌年4月出征。
16年6月華北柿樹園にて戦死。26歳。 

母上様 

いよいよ別離の日が参りました。 けれども私は元気にいって参りますから、くれぐれもお体を大切になさって、苦心して生還した時には一層元気な御姿に接し得ることを祈っております。 

何の屈托もなく何の感情の高揚沈低もなきかのごとく装うておりましても、私はやはり多くの未完成を抱いたまま戦地に参ります。そこには寂莫の感もありますし愛惜の情もあります。

けれども見えざる神の意志の支配に全幅の信頼を置いて、危難地に赴く構えはいささかながら既に会得していると自負しております。

この上はママも義光も三重子も皆が私の心情をくみとってせめて笑顔をもって私を送っていただきたかったのでしたが、やはり親と子の情はもっと深刻切実なものであるようです。 

私はママの涙はいといませぬ。 しかしこの後はなるべく朗らかに日々を過ごされて私の出しますたよりを御まち下さることを願い上げます。

はじめから「悲しみの涙」で戦地に赴くのではなくて死ににゆくような気がかえっておこりますから、どうぞ釣道具やスケッチブックをもって出かけた心持ちになっていただきたいと切望いたします。どうかもう決して涙は流すまいと決心して約束していただきたいものです。 

桜の花の美しき風情、春日ののどかな気分に落ち着きまして自分の心をふりかえりますと、色々と新しい感情が湧くのでした。

今までは人世だとか、悩みだとか楽しみだとか、その他のむずかしいことをお互いにわかったような気になって話しあったり独り合点したりしていましたが、結局はほとんど全部は過ぎゆくものにすぎませんでした。

そしてただ基督
(キリスト)による救いという事が、動かぬ世界への唯一の希望のかけはしとして残されているような気がします。 

その信仰も決して非常に強固であるとはあえて申せませんが、他のもの-世の中のすべてにくらべればはるかに切実なもののように思えるというわけです。 

あれほど戦争を嫌って恐れていたかつての私が、今や一切の雑念をさらりとすてて、ひたすら戦いにのぞむ者としていろいろ修行をつづけることは、全く驚異すべき事柄のようであろうと思います。

けれどもそれは家の人からみれば驚異的現象であっても、当事者になって見ればかなり当然すぎるものとしか考えられません。 

「それほど軍人になりきったか」といわれればそれまでですが、私はむしろそう考えるよりは「軍人という境遇におかれて特殊な鍛錬をされつつある」という方が正当であろうと思います。私は「それほど軍人になりきってはおりませぬ」。 
 
軍隊生活において私が苦痛としましたことの内で、私の感情-繊細な鋭敏な-が段々とすりへらされて、何物をも恐れないかわりに何物にも反応しないような状態に堕ちて行くのでないかという疑念ほど、私を憂鬱にしたものはありません。

私はそうやって段々動物になり下ってしまうよりは、いつまでも鋭敏な感情に生きつつ、しかも果敢な戦闘を遂行したい衝動にかられています。 

しかし私は無理はしません。一瞬は驚き、たじろいでも次の瞬間には最善の方法を落ち着いて実施して行くというように、自分の性格を生かして最後の勝利に向かって邁進したいと思います。

私にとって、いわゆる最後の勝利が生還によってはじめて成就されるものか、あるいは戦死してのみ与えられるものかは今のところ全然わかりません。 

がそれだけに、いとも朗らかに出発して行けますから、どうか留守の皆も楽しい日々を送って、私の必生(必死!)の修養を見守っていていただきたい。

死すればそれはまた主の御旨ですから、めめしく涙など流さぬこと、生還したとしてもそれで最後の勝利が与えられたわけではないのですから軽々に笑わぬ事を願います。
 

【その7へ】