【その7】
桜花

427: 名無しさん 2001/05/11 00:16
女子勤労奉仕隊員の記録(ある女学生の日記)

昭和二十年三月二十七日
作業準備をして学校へ行く。先生より突然特攻隊の給仕に行きますとのこと。びつくりして制服にきかへ兵舎まで歩いて行く。はじめて三角兵舎にきてどこもここも珍しいものばかり。今日一日特攻隊の方々のお部屋の作り方。

こんなせま苦しい所で生活なさるのだと思つたとき、私達はぶくぶくした布団に休むのが恥づかしい位だつた。わら布団に毛布だけ、そして狭い所に再びかへらぬお兄様方が明日の出撃を待つて休まれるのだと思ふと感激で一杯だった。五時半かへる。

三月二十八日
今日は特攻隊の方のいらっしゃるお部屋へまはされたが、初めてのこととて恥づかしくて逃げたりしたが、自分の意気地のないことを恥ぢた。明日からはどしどし特攻隊のお兄様方のおつしやることをおききして、お洗濯やらお裁縫を一生懸命やらうと思ふ。

三月二十九日
朝お洗濯をして午後ちょつと兵舎の掃除をしたついでにおはなしを承る。大櫃中尉を隊長とする第三十振武隊の方々は若いお方々で、隊長さんの威厳とした態度、私達には至つてやさしい隊長さん、部下の方々も実に隊長様になついていらつしやつた。松林の名かで楽しく高らかにうたをうたふ。

三月三十日
今日は出発なさるとのこと。朝早く神社の桜花をいただいて最後のお別れとして私達のマスコット人形を差し上げる。無邪気に喜ばれる。貨物(トラック)で飛行場のところまで行つて食糧等を詰込んであげる。皆ほがらかに「元気で長生きするんだよ」と言はれて愛機に飛び乗られる。

愛機には、さまざまなマスコット人形が今日の出撃をものがたるやうに風にゆられている。出発なさったが天気の都合でかへられる。大変残念がつていらつしやつた。

三月三十一日
今日は一日のんびりと特攻隊の方々と芝生でお話をする。全部の方々の住所をおききする。佐々木、池田兵長さん、地獄県三途川区三丁目草葉蔭とかかれる。

そして、女学校生活などお話ししてお兄様方の軍隊生活のお話もおききする。福家伍長様には私達と同年の妹様がいらつしやるさうで妹さんのお話もおききする。

(中略)

四月三日
今日は四回目の出撃、まさに四時であつた。最後の基地知覧を後に大櫃機以下十機は遠い遠い南へと飛び去っていつた。只一人病床にある河崎伍長さんを残して。

出撃前、飛行場の擬装をとつてあげると「こんなにお手々きたなくなるよ」と今井さん、皮のよごれた手袋を見せなさる。無理にお願ひしてとつてあげる。横尾伍長さんたいへん喜んで「後に何も思ひ残すことはないが、只一つ病床に残した河崎のことが気にかかる」と。

さうでせう、横尾さんと河崎さんは本当に睦まじい戦友だつたんですもの。自分は今日とは知れぬ身ながら病気の戦友を思ひやる横尾さん実に立派な方だと思ふ。

部下の骨を背に出撃なさつた隊長さんと言ひ、チョビ髭の横田少尉さんと言ひ、私達を妹の如く、又子の如くかはいがつて下さつたし私達は本当に幸福だつたと思ふ。岩間さんの書置、何も出来なかつた私共にこんなにまでにお礼の言葉を戴いたと思ふと有難さで胸が一杯だつた。

私達は只三十振武隊の方々が無事敵艦に体当たりなさつて立派に御大任をお果たしにならんことをお祈りするのみです。

四月四日
病気の河崎さんと整備の方々だけでひつそりと兵舎はしていた。昨日まではああだつた、かうだつた、とみんなで兵舎の思ひ出を繰返す。河崎さんの看病のかたはらちよつと整備中隊へ布団を取りに行く。新聞記者に捕まり特攻隊につかへての感想、感激、覚悟等話す。幾人もの新聞記者に取り巻かれほとほとした。

四月五日
特攻の方がいらつしやらぬので整備の方々のお洗濯をこちらからお願ひしてやつてあげる。終日飛行機と取り組み疲れていらつしやるでせうと慰めてあげる。特攻機を無事に故障なく飛ばすのは整備の方なのだ。私達はこの御苦労をおさつしして毎日でもお洗濯してあげなくてはと思つた。

四月六日
自分が整備された愛機はもう体当たりしただらう、「今日は隊長殿の命日としてみんなで拝まう」と整備の方がおつしやつて森さんと私、たばこを一本もらつてバラバラにして火にお香がはりにたいて拝む。遙か南の方へ・・・。

二、三日前まで元気でいらつしやつた方々が今は敵艦へ体当たりなさつてこの世へはいらつしやらぬのだと思ふと仕事も手がつかず食事の準備をしただけ。

整備の方の吹く尺八をきいていると二十振武隊の方々が洗濯物をおたのみになる。初めからの受け持ちだつたのだが、兵舎が離れていて飛行機故障で残られた方が三人なので行きにくい。ついでに靴下のつくろひをと穴沢少尉さん三足おたのみになる。他の方が「自分のも」と言つてつくろひ物で午後からは精一杯だつた。

(中略)

四月十二日
今日は晴れの出撃、征きて再び帰らぬ神鷲と私達をのせた自動車は誘導路を一目散に走り飛行機の待避させてあるところまで行く。途中「空から轟沈」の唄の絶え間はない。先生方と隊長機の擬装をとつてあげる。

腹に爆弾をかかへた隊長機のプロペラの回転はよかつた。本島さんの飛行機もブンブンとうなりをたてていた。どこまで優しい隊長さんでせう。始動車(当時の飛行機は発進のときプロペラの回転が自動でできず、始動車によって始動した機が多かった)にのせて戦闘指揮所まで送られる。

うしろを振り返れば可憐なレンゲの首飾りをした隊長さん、本島さん、飛行機にのつて振り向いていらつしやる。桜花に埋まつた飛行機が通りすぎる。私達も差し上げなくてはと思つて兵舎へ走る。途中、自動車に乗つた河崎さんと会う。

桜花をしつかり握り一生懸命馳せつけた時は出発線へ行つてしまひ、すでに滑走しやうとしている所だ。遠いため走つて行けぬのが残念だつた。本島機が遅れて目の前を出発線へと行く。

と隊長機が飛び立つ。つづいて岡安、柳生、持木機、九七戦は翼を左右に振りながら、どの機もどの機もにつこり笑つた操縦者がちらつと見える。二十振武隊の穴沢機が目の前を行き過ぎる。一生懸命お別れのさくら花を振ると、につこり笑つた鉢巻姿の穴沢さんが何回と敬礼なさる。

パチリ・・・後を振り向くと映画の小父さんが私達をうつしている。特攻機が全部出て行つてしまふとぼんやりたたずみ南の空を何時までも見ている自分だつた。何時か目には涙が溢れ出ていた。

何も話す気はせずみんなで帰らうとすると、本島、渡井さん、本島さんは男泣きに泣きながら・・・「どうしたの」とお聞きすると「今日ね、爆弾が落ちて行かれなかつた。隊長さんの所へ行くと『本島、後から来いよ。俺はあの世で一足先に行つて待つているぞ』と言はれたんだ。思はず残念で隊長機の飛び去つていつた後、一人で思ふ存分泣いた」とのこと。

渡井さんも「本当にすみませんでした」と涙ぐんでいらつしやる。私達も今までこらへていた涙が一度にこみあげてみんなで泣いた。その夜、隊長さんのお通夜だと言つて酒も飲まれず、今日いらつしやつた堀井さんが冗談をおつしやつても只ぼんやりときいていらつしやるだけだつた。「本島、本島」と部下愛の深かつた隊長さんを思ひ出すと泣けるから黙つていてくれとおつしやる。

立派な隊長さんと一緒に体当たり出来ず又第二総攻撃に参加出来なかつたことが残念だつたことでせう。

(後略)

女学生から貰ったマスコットに喜ぶ・・・ その時の気持ちを考えると、胸が痛むな。

428: 名無しさん 2001/05/11 00:50
>>427 
>皆ほがらかに「元気で長生きするんだよ」と言はれて愛機に飛び乗られる。
 

・・・きた(涙 。

穴澤機
写真の説明には「特攻1番機で出撃する穴澤利夫とそれを見送る女子学生」とあるので、おそらく桜の花を振っている女学生の一人がこの日記の主、そしてその時に撮られた写真。 (wiki:知覧特攻平和会館より)

穴沢利夫大尉遺書「婚約者への遺言」

二人で力を合わせてつとめてきたがついに実を結ばずに終わった。

希望を持ちながらも心の一隅であんなにも恐れていたのだ。 時期を失する といふ事が実現してしまったのである。

去年十日、楽しみの日を胸に描きながら池袋の駅で別れたが、帰隊直後、我が隊を直接取り巻く状況は急転した。発信は当分禁止された。転々と所を変えつつ多忙の毎日を送った。そして今、晴の出撃の日を迎えたのである。

便りを書き度い、書く事はうんとある。

然し、そのどれもが今迄のあなたの厚情に御礼を言う言葉以外の何物でもないことを知る。あなたのご両親、兄様、姉様、妹様、弟様、みんないい人でした。至らぬ自分にかけて下さったご親切、全く月並みの御礼の言葉では済み切れぬけれど、「ありがとうございました」と最後の純一なる心底から言っておきます。

今は従に過去に於ける長い交際のあとをたどりたくない。問題は今後にあるのだから。常に正しい判断をあなたの頭脳は与えて進ませてくれる事を信じる。しかし、それとは別個に婚約をしてあった男性として、散ってゆく男子として、女性であるあなたに少し言って征きたい。

「あなたの幸せを望ふ以外に何物もない」 「従らに過去の少義に拘るなかれ。あなたは過去に生きるのではない」 「勇気をもって過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと」「あなたは今後の一時々々の現実の中に生きるのだ、穴沢は現実の世界にはもう存在しない」

極めて抽象的にながれたかも知れぬが、将来に生起する具体的な場面場面に活かしてくれる様、自分勝手な一方的な言葉ではないつもりである。純客観的な立場に立って言うのである。今更何を言うかと自分でも考えるが、ちょっぴり欲を言ってみたい。

1、読みたい本「万葉」「句集」「道程」「一点鐘」「故郷」
2、観たい画「ラファエル 聖母子像」「芳崖 非母観音」
3、智恵子。会いたい。話したい、無性に。

※穴澤利夫少尉:
1945年4月12日、「第二十振武隊」隊員として一式戦闘機「隼」にて知覧を出撃、沖縄方面洋上にて散華。二階級特進、陸軍大尉。享年23歳。

420: 名無しさん 2001/05/10 21:42
ここに上げられてる士官や兵隊さんの話を見てさ、私はばあちゃんの兄さんを連想したんだよ。死んだ時26。

南方で死んだらしいんだけど、詳しくはばあちゃんは教えてくれなかった。手紙なんかも見たことないし、どんな気持ちで死んでったのかも知らない。でも、兵隊に取られてすぐに死んだらしい。 

他にしたいこともあっただろうし、先の人生がどうつながっていったのかもわからないけど、戦争がなきゃ骨がどこにあるかわかんないような死に方はしなかったと思う。 

それは、子供に愛情の篭もった手紙を書いた兵隊さんについても同じだと思った。 

432: 未亡人 2001/05/12 00:28
亡き人は 海歩み来よ 桜どき

385: 名無しさん 2001/05/08 05:30
何も終わっちゃいねえ!何も!言葉だけじゃ終わらねえんだよ! 

俺の戦争じゃなかった、あんたにやれって言われたんだ! 俺は勝つためにベストを尽くした。だが誰かがそれを邪魔した! 

シャバに戻ってみると空港に蛆虫どもがぞろぞろいて、抗議しやがるんだ!俺のこと赤ん坊殺したとかなんとか言いたい放題だ。やつらに何が言えるんだ。ええっ!奴等はなんだ?俺と同じあっちにいてあの思いをして喚いてんのか!

みんな失望し苦しんでいたんだ、もう過ぎたことだ。あんたにはなァ!俺にはシャバの人生なんか空っぽだ。「おまえは私にとって最後の一人だ。野垂れ死にをしてくれるな」 。戦場じゃ礼節ってもんがあった、助け合い支えあっていた。ここじゃ何もねえ!」 

あっちじゃヘリも飛ばした。戦車にも乗れたよ!100万もする武器を自由に使えた! それが国に戻ってみれば駐車場の係員にもなれないんだ!! 

畜生・・みんなどこ行ったんだ・・クソ・・。 

空軍にも友達がいた。みんないい奴だった。あっちじゃ友達はごまんといた。それなのにどうだ、ここには何もねえ・・。 

ダンフォース・・憶えてる。俺いつかマジックペン一本とって、拾い物ってラスベガスに送ったんだ。俺たちいつもベガスのこと、車のこと喋ってたから。 あいつはいつも赤いシェビンのコンパッティブルのこと喋ってた。帰ったらタイヤが擦り切れるまで走ろうって・・。 

俺たちがいたあの納屋に子供がやってきて、靴磨きの箱を持って「お願い磨かせて」、そう言ったんだ。俺は断ったが、しつこくせがむんでジョーイは承知したんだ。俺はビールを取りに出た。

靴磨きの箱に仕掛けがあって、箱を開けるとあいつの体は吹っ飛ばされちまった。すごい悲鳴だった!あいつの血や肉が俺の体にべっとりついてこんなに!! 引っぺがさなきゃならなかった!友達が、俺の体中に飛び散って! 

俺、なんとかあいつを抑えようとした!けど、どうしても内臓がどんどん出てくるんだ!  どうにもできなかった!

あいつ言うんだ。「俺うちへ帰りてぇー帰りてぇー」、そればっかりだ「国へ帰りてぇー、帰ってシェビン乗り回してえよー」でも・・あいつの足がみつからねえんだ・・足がみつからねえんだ・・。

あれが頭にこびりついてる。もう7年にもなるのに・・毎日思い出すんだ。 目が覚めてどこにいるのか分かんねえ時もある。誰とも喋れねえ・・。 

時には一日・・一週間も・・忘れられねえ・・あれが・・。

416: 名無しさん 2001/05/10 20:42
泣けるかも。 

「ムルデカ 178051945年8月15日」 
ttp://toho.co.jp/movie-press/merdeka/ 

「インドネシア独立のために、誇り高く戦った日本人兵士たち。祖国への想いを断ち、彼らはなぜ戦ったのか。―――これは、真実の物語である。」 
いよいよ明日封切り。 

無条件降伏で終戦を迎えた大日本帝国。激しい混乱と動揺のなか、日本は平和国家として祖国再建への一歩を踏み出そうとしていた。

そして同じ日。遥か南方の地では、銃を手に 異国の人々と運命を共にすることを決意した日本兵たちがいた。スカルノらが勝ち取った「インドネシア独立」の陰には、祖国に帰ることを選ばず、自らの意志で異国の地に残った名も無き幾千の日本兵士の姿があった。 

「17805の意味」 

後の正副大統領・スカルノとハッタは、日本への感謝を表し、インドネシア独立宣言文に日本の皇紀「2605(=西暦1945年)8月17日」で年号を書き入れ署名した。

これを、日・月・年の順に並べた5ケタの数字は、独立を宣言した日として、いまもインドネシア国民に記憶されている。

ムルデカ 17805 スペシャル・エディション [DVD]
保坂尚輝
ハピネット・ピクチャーズ
2004-02-26


433: 名無しさん 2001/05/12 03:03
泣ける話とは「戦時下にあっても失われなかった人間性の記録」だと思うのです。 

1943年、神宮外苑から学徒出陣を見送った女子学生 

出征直前、婚約した彼が軍服で挨拶にきました。

初めて二人になったとき、彼は襟を正して言いました。「この戦争は間違ってる。 国のためならともかく天皇のために死ぬのはイヤだ」と。当時、日本は神国だ、天皇のために死ねとの教育でしたから、私は びっくりしました。 

あの時、なぜ戦争がイヤなのかを聞かなかったのか。そんなにイヤなら二人で死のうとなぜいえなかったのか……。 出征を見送るホームで、彼は笑っていたけど涙していました。 

「どこへ連れて行かれるのかなあ」 それが最後でした。

彼は沖縄で死にました。彼の気持ちを受け止められなかったのを今でも悔やんでます…。 

いまの若い人たちに頼みます。世界中が平和になるような世界をつくってください。

434: 名無しさん 2001/05/12 03:25
ダメだ、どうも最近涙もろくなってるみたいだ。 

435: 名無しさん 2001/05/12 05:08
>>433 
その手の美しい話は、どうも胡散臭い。

436: 名無しさん 2001/05/12 10:30
>>435 
それは判るんだが、政治的意図とか「平和」とか抜きに読んでこっちは泣いた。

単に涙もろいだけだと思うけど。 

437: 名無しさん 2001/05/15 01:24
「誰が何と言おうと、戦争だけはしちゃいけないよなぁ」 

全レス読ませていただきました。これがその感想。

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