【その9】
桜花

479: 名無しさん 2001/05/18 02:09
松尾敬宇海軍中佐 熊本県出身  海軍兵学校第66期 
昭和17年5月31日歿、満24歳 

憂国の烈士・三島由紀夫は「行動学入門」の中に、“行動の美の典型”として「オーストラリアで特殊潜航艇が敵艦に衝突直前に浮上し、敵の一斉射撃を浴びようとしたときに、月の明るい夜のことであったがハッチの扉をあけて日本刀を持った将校がそこから現れ、日本刀を振りかざしたまま身に数弾を浴びて戦死したという話が伝えられている」

「このような場合にその行動の美しさ、月の光、ロマンチックな情景、悲壮感、それと行動様式自体の内面的な美しさとが完全に一致する。しかしこのような一致した美は人の一生に一度あることはおろか歴史の上にもそう何度となくあらわれるものではない」 と記した。 

この海軍士官こそ、殉忠菊池氏の流れをくむ熊本県山鹿市出身の松尾敬宇中佐(当時大尉)その人なのである。中佐は真珠湾攻撃に次ぐ第二次特別攻撃隊員として、遠くシドニー港の奥深く突入、壮烈な戦死をとげた。

480: 名無しさん 2001/05/18 02:10
続き

中佐は壮途につく直前(昭和17年3月29日)、両親と兄姉を呉(広島県)に招き一夕を共にすごす。

この時、父から贈られたのが前記の「行動学入門」に「日本刀をふりかざし‥」と記された伝家の菊池千本槍(短刀に柄のついたもの)である。 

その夜、中佐は「俺はお袋と一緒に寝る」と母の懐に寄り添って床に就く。二十四年育て上げ、唯一筋に国に捧げまつろうとする吾が子の肌の温もりに、今宵が最後の夜を予感、春寒を遮るようにその五体をわが胸に引き寄せる母であった。 

昭和17年6月5日の大本営発表によれば
「帝国海軍部隊ハ、特殊潜航艇ヲ以テ、5月31日夜、濠州東岸シドニー軍港ヲ強襲シ、湾内突入ニ成功、敵軍艦一雙ヲ撃沈セリ。本攻撃ニ参加セル我特殊潜航艇中三雙未ダ帰還セズ」と。

481: 名無しさん 2001/05/18 02:11
続き

この大胆不敵な作戦は濠州の人々の心胆を寒からしめたが、日本海軍軍人の忠勇武烈に深く感銘した濠州海軍は6月4日、松尾艇、翌5日に中馬艇(海軍中佐中馬兼四)を引き揚げると共に、艇内から収容した四勇士を6月9日、海軍葬の礼を以って弔ってくれた。 

この時、敵国軍人に対する海軍葬について非難の声が挙がったが、シドニー地区海軍司令官ムアーヘッド・グールド少将は

「勇気は一特定国民の所有物でも伝統でもない。これら日本海軍軍人によって示された勇気は、誰によっても認められ、かつ一様に推賞せらるべきものである。これら鉄の棺桶に入って死地に赴くことは、最高度の勇気がいる。これら勇士が行った犠牲の千分の一の犠牲を捧ぐる準備のある濠州人が幾人いるであろうか」 

と全国にラジオ放送して反対の声を制し、海軍葬を執行したのである。 

戦後、濠州海軍は松尾艇、中島艇を切半して一艇とし、首都キャンベラのオーストラリア連邦戦争記念館に安置、御遺品と共に丁重に展示している。「この勇気を見よ!」と説明が特筆大書され、内外の参観者に大きな感銘を与えているとのことである。

482: 名無しさん 2001/05/18 02:12
続き

昭和43年4月、中佐の母堂は濠州へ答礼感謝の旅に出る。 83歳の老母は「訪豪に当たりて」の一文を草した。 

「昭和17年5月31日、貴国シドニー港内にて戦死いたしました松尾敬宇の母でございます。当時、戦時中にもかかわらず、世界に例を見ぬ海軍葬の礼を以て厚く葬っていただき、その上遺骨は日章旗で覆い、丁重に遺族へ届けていただいて、10月9日、鎌倉丸(戦時交換船)横浜に着くや全国民の感激はとても言葉に尽くせませんでした」

「(中略)ただ貧しい老いの身をかこちながら年ごとの5月31日は遥かに貴国を拝し、感謝合掌しておりました。この度はからずも、松本先生(地質学の泰斗松本唯一博士)始め多くの方々の御尽力を戴き、貴国を訪問、御礼言述べ得ますことは、こよなき喜び、かつ光栄に存じます。」 

とつ国の あつき情けに こたえばやと 老いを忘れて 勇み旅立つ 

母堂まつ枝刀自は会う人の全てを魅了する玲瓏玉の如きお人柄で、その上、素晴しい歌人でもあった。 
訪豪の十日間、“勇士の母”として濠州は海軍をはじめ朝野を挙げて、あたかも国賓を迎えるごとく歓迎した。

483: 名無しさん 2001/05/18 02:12
続き

一行は中佐ゆかりの戦跡を巡るが、狭い湾口を見詰めた母堂は「よくもこんな狭いところを‥‥‥母は心から誉めてあげますよ」とつぶやき、湾内では戦死した6名の勇士の名を心に叫びながら、故郷の押し花、色紙と日本酒を海にまいた。 

湾内を見下す断崖からは、中佐の許嫁だった女性から託された和歌二首を記した紙片を海に投じた。その人の真情が母堂の手で手向けられたのである。中佐への何よりの供養であったろう。 
 
連邦戦争記念館では、中佐の御遺品の数々に涙を注ぎ、愛艇を撫でさすり、菊池神社の神酒と花輪を供えた母堂は、 

愛艇を 撫でつつおもふ 呉の宿 名残りおしみし かの夜のこと 

と、吾子に添い寝をした最後の夜を回想する。そして館長からは、中佐が最後まで締めていた血染めの千人針などの御遺品が返却された。 

一行の行く先々に大勢の記者が待ち構えていて、新聞は母堂の各地での写真と詠歌をトップ記事で競って報道したため、濠州国民を感動の渦に巻き込んだ。 

昭和55年(1980)1月24日、母堂は95歳の一生を終えた。

27日の葬儀には、中佐の忠烈を讃え、母堂を慕う400余人が辺鄙(へんぴ)もいとわず全国から参列。オーストラリア大使館からの弔電をはじめ、霊前には数々の弔辞が述べられ、詩吟、和歌などが献詠されて、葬儀は3時間に及んだという。

484: 名無しさん 2001/05/18 02:22
>>479-483 
滂沱
(ぼうだ:とめどない)の涙が止まりませぬ・・・。 

今夜は寝ます・・・。

505: 名無しさん 2001/05/18 20:56
例え敵兵士であろうとも、その勇気を称え賞賛できた豪州海軍司令官も、また素晴らしいと思う。
 
そういえば米軍にもこの様な人物が居た気がする。彼らは本当に、軍人としての誇りを持っていたのだろうな。いや、人としての誇りかな。

特殊潜航艇「甲標的」:
先端に2本の魚雷が搭載されている。
甲標的
(wiki:甲標的より)

516: 名無しさん 2001/05/19 22:58
何年も前にテレビ朝日でやってたドキュメンタリー。 

ニューギニアで夫が戦死したんだけど、その人、よく夫の夢を見るそうだ。 

夫が死んだ場所が何故か夢に出てきて。遺品の場所もわかるらしい。どうしても探し出したいとニューギニアへ。でも、見つけられなかった。 

日本に帰る日、ジャングルに向かってその人が「見つけられなくて御免ね」って泣きながら叫ぶんだよ・・・。 

マジで今思い出して涙出てきたよ。

518: 名無しさん 2001/05/20 00:17
>>516 
ニューギニアで戦死した方の奥さんが慰霊の旅に参加する際に、亡き夫宛に書いた手紙が「昭和の遺書」という本に所収されているんだけど、これがまたとても切ないんだよ…。



523: 名無しさん 2001/05/21 08:05
家のジイさんもニューギニアで死んじゃった。マラリア。 

周りは何とかして出征を止めようとしたが、本人が当時新妻だったバアさんも振り切って行ってしまったらしい。大正生まれはついてない女性が多いね。 

バアさんは死ぬまでに一度はニューギニアに行きたがっているが、足腰が弱り過ぎているからもう無理かな・・・。来月帰省するから、バアさんが逝ってしまう前に出来るだけ場所を詳しく聞いておこうと思う。 

金が出来たら代わりに俺が行こう。ジイさんとは面識無いけど。

524: 名無しさん 2001/05/22(火) 07:35
>>523 
「ニューギニア方面遺族会」なる組織があるそうだよ。ニューギニアへの慰霊の旅や、靖国神社での慰霊祭などを行っているみたい。探して問い合わせされたらいかがでしょう? 

厚生省あたりに聞けばわかると思われ。

530: 名無しさん 2001/05/22 16:07
不謹慎かもしれないが、こないだの北朝鮮不審船事件で、海上自衛隊突入班員達が書いたといわれる遺書が、どんなものか気になったよ・・・。

※能登半島沖不審船事件:
1999年3月23日に発生した、北朝鮮の不審船による日本領海侵犯事件。

海上自衛隊の護衛艦「みょうこう」をはじめとする追跡が行われ、海上自衛隊発足以来初のROE(交戦規定)となる野呂田防衛庁長官名の命令書「部隊の取るべき措置標準」を受け取り、「みょうこう」及び「はるな」は搭載している速射砲で25回、35発の警告射撃を実施した。

3時20分から5時41分にかけ、上空から飛来した八戸のP-3C 3機が、巨大な水しぶきにより水の壁を作り、水の力で不審船を停船させるため、150キロ対潜爆弾12発を投下する警告爆撃を行った。

不審船からの地対空ミサイルによる攻撃を防ぐため、現場判断で、爆弾投下を行うP-3Cと不審船の間に、監視目的で飛行していた無防備のE-2C僚機が割り込み、命懸けで盾となる飛行を行った。

護衛艦「みょうこう」では、不審船に接近し立ち入り検査を行うこととなった。艦長命令により、航海長を指揮官とする臨検部署が臨時に発令され、臨検要員が選出された。

「犠牲やむなし」

接近戦を想定していない当時の海上自衛隊では、艦内に防弾チョッキの備えはなく、救命胴衣の上から分厚いマンガ本をガムテープでぐるぐる巻きにし、防弾チョッキ代わりにした。万が一に備え、仲間に別れを告げた隊員もいたという。

「頑張れ!ガンバレ!」

ガムテープでぐるぐる巻きにした救命胴衣には、マジックで仲間からの激励の言葉が書かれていた。臨検に備えて、臨検要員全員に艦内に備え付けの拳銃が配られた。拳銃の射撃訓練を受けているものの、当時の海上自衛官には近接戦闘・近接格闘に精通している者はいなかった。

「航海長、お世話になりました。行ってきます。後はお願いします」

また、護衛艦「はるな」においても臨検部署が令される中、不審船の進路上に割り込んで網(体験航海時の転落防止ネット)を投下し、海面に漂わせてプロペラに絡ませようとしたが、回避され失敗した。

不審船はその後も高速で逃走し、防空識別圏を越えたため追跡を断念した。25日の朝7時ごろに北朝鮮の清津に入港した。これをもって状況が終了し、15時30分をもって海上警備行動は終了した。(参考:wik:能登半島沖不審船事件)

535: 名無しさん 2001/05/22 23:54
>>530
以前、どこかで見かけた話(よってうろおぼえ&真偽不明)。不審船の時の空自の話なんだけど、ふと思い出したので。 

この時、空自の幹部と戦闘機の隊の隊長さんが、情報収集かなんかで防衛庁に詰めていた。で、防衛庁長官(野呂田さん)が二人に、「万一の時は空自の戦闘機で北朝鮮のミサイル基地を叩けるか?」と質問。 

すると隊長は即座に、「可能です。が、帰還のための燃料が足りません。自分は部下に特攻を命ずることは出来ませんので、そのときは自分が行きます」 と答えたとか。 

これが本当の事だったらいろんな意味で泣ける話だと思う。

584: 名無しさん 2001/05/28 13:59
「諸君(台湾人兵士)はよく国の為に戦ってきた。しかし、今ここで軍の命令どおりに犬死にすることはない。祖国台湾には諸君らの生還を心から願っている家族が待っているのだ。私は日本人だから責任はすべて私がとる。全員、米軍の捕虜となろうとも生きて帰ってくれ」 

そう言って、広枝音右衛門海軍巡査隊長は、台湾人の命を保証するよう米軍と交渉した後、フィリピンの地で自決した。 

昭和五十八年、小隊長をつとめた劉維添
(りゅう いてん)はかつての隊長の自決の地を訪れ、広枝隊長終焉の地の土を集め、茨城県に住むフミ未亡人の手にわたした。 

広枝隊長は獅頭山の権化堂に神様として祀られ、鬼籍の人となった夫人も、広枝隊長の位牌とともに、かつての部下だった新竹警友会の人たちの手によって権化堂に祀られた。 


「捏造された日本史」黄文雄

585: 名無しさん 2001/05/28 19:22
>>584 
この手のいい話は、韓国からはないのかな。 

台湾の人に比べて半島の人は困ったもんだよな。

590: 名無しさん 2001/05/31 17:33
>>584 
「責任は私がとる。私は日本人だから」 

これは同じ帝國臣民だけど、民族は違うっていってるんだろうか。これを言われた時隊員は、私も日本人ですとか言わなかったのかな。

※広枝音右衛門(ひろえだ おとえもん):
台湾総督府警察の警察官。享年39。広枝の自決後、広枝の部下の多くが米軍に投降して捕虜となり台湾に生還した。なお、彼の部下の劉維添氏は権化堂で行われる慰霊祭に毎年参加し、2013年9月21日、91歳で死去。



589: 名無しさん 2001/05/31 17:19
特攻隊で死を覚悟 小松順吉さん 
ttp://mytown.asahi.com/fukushima/news01.asp?c=5&kiji=295 

20歳で兵隊に行った。教員になりたいと思ってたから通信学校を志願して、高等科が終わると実施部隊の指導をしてた。茨城県の鴻池ていうところだった。「丸大」っつう、爆弾の中に人間が乗って操縦して、敵に体当たりする部隊だった。

特攻隊なんだよ。1トンの爆弾に飛行機のような羽根がついてて、操縦稈(かん)がついて、それに乗る部隊だった。最新の電波探知機は積んでても、まだよく使いこなせなかったときだから、無線と一緒に教えてた。 

こういう実施部隊は、戦闘機乗りの訓練を積んだ優秀な人しか乗れねぇんだよ。高度5000メートルくらいから鴻池の飛行場に急降下で降りて来て、地上すれすれまで突っ込んできては、ヒューっと上がっていくんだわい。毎日そんな訓練してた。

はじめて「丸大」っていう爆弾使ったのは沖縄だった。爆弾に人間が乗って操縦するんだから、百発百中だ。もちろん人間は帰ってこねぇ。何千人も乗った船沈めるわけだから、それを名誉としてた。 

このまえ浜松の航空基地へ行ったら、あそこに航空博物館ってあんだわい。そこでたまたま、おれたちの部隊の少尉の人の遺言状に出会ってな、巻紙の達筆な遺言状だった。こんなとこで会うんだものなぁ……涙が出た。 

江田島に海軍博物館ってあんだげど、あそこさ行ったらあらゆる部隊の遺言状がいっぱいある。みんなに一度は行ってもらいてぇなぁ。おれはばぁさまと一緒に行って、ずうっと読んでったが、涙ぼろぼろ出てくんだわい。

訓練すっときはおれも飛行機に乗ってたから、遺言状はいっつも書いてた。死ぬことはいっつも覚悟してたからな。 

おれが当直のとき、おれの代わりに乗ってったヤツが死んだ。おれが死ぬはずだったんだ。3人で当直してて爆撃に遭って、おれだけ助かったっていうときもあった。 

あの時の日記、いまでも時々出してみる。忘れたくねぇと思ってな。一緒に寝起きしてたヤツが丸大に乗って出て行くときは、やっぱ……涙が止まんねがった……。 

爆弾積んだ7人乗りの飛行機から、ひとりずつ1トン爆弾の中に入って、飛行機から離れていくんだ。一緒に寝起きしてたヤツが、ピンピンしてたヤツが、死んで行くんだゾ。ハッチ開けたら、もう帰ってこねぇ。おれの孫と同じぐれぇの年なんだゾ。 

戦争は人殺しだ。あんなことはやっちゃなんねぇ。人を殺しても罪になんねぇんだ、戦争ってやつは……子供たちには教えておきたい。こんなこと、二度とやってはなんねぇってな。 

遺言状を読んでみっといい。17、18歳の、まだ少年が書いてる遺言状だ。あんなこと、二度と書かせちゃなんねぇ。

593: 名無しさん 2001/05/31 23:26
デーニッツ元帥最後の訓辞。 

Uボートの乗組員に告ぐ。

6年にわたる戦争は我に利あらず、されど諸君はよく戦えり。敵の膨大な物量により、不敗無欠の諸君は比類無き勇戦の後、自ら矛を収めるに至れり。我らは総統と祖国のために散華した戦友の冥福を祈る。 

諸君はUボート精神を堅持せよ。祖国の将来のために積年の敢闘精神を捨てるなかれ。

※カール・デーニッツ:
潜水艦作戦の第一人者で、無線誘導による申述をあみだした。イギリスを最も苦しめたドイツの軍人の一人。総統アドルフ・ヒトラーの自殺後にはその遺書に基づき大統領に就任し、連合国への無条件降伏を行った。1980年12月24日、89歳で死去。

611: 名無しさん 2001/06/04 17:09
戦争しないで他国が蹂躪(じゅうりん:踏みにじる)するに任せてたら、もっと悲惨な話があるのだろうなあ…。