【その10】
貧乏

649: 名無しさん 01/09/10 23:3
あたし、旅行なんか修学旅行しか行ったことないです。 

夏休みの日記は、図書館で旅行のガイドブック見ながら創作してました。

651: 名無しさん 01/09/10 23:56
小学校の時、家に友達を4,5人呼んで誕生会をやったんだ。 

そのうち、母親がケーキを焼いたからお食べって出してきたのは、メリケン粉と卵と砂糖を混ぜて焼いた「蜂の巣(我が家の名称)」だった。 こんなもん、持ってきやがって!ってものすごく恥ずかしい思いをしました。 

でも食ったけど・・・(苦笑)。

654: 名無しさん 01/09/11 00:55
小学校時代の友人の家はかなり貧しかった。 

友人の自宅は都内の山の手地区にあったのだが、建物はベニヤ板とトタンでできていて、高さは大人の身長と変わらず、最初に彼の家を訪れた時は、中で人が立つことができるのか不思議にさえ思ったほどだ。 

建物の中は掘り炬燵
(ほりごたつ)のように、地面より低い位置に掘り下げて設けられた部屋が一つあるだけだった。そしてそこに生活の全てが集約されていた。 

そんな環境で育った友人だったが、快闊(かいかつ:心が広い、さっぱりしている)で屈託のない良い奴だった。

ただ、彼の幼い弟は繊細なところがあり、彼の家でトランプなどに興じながらふざけていると、「今、笑ったのは家がボロいから?」と不安そうに聞いてきたりもした。勿論、違うので首を横に降ると、ひどく安心したような表情に戻ったものだ。 

友人とは毎日のように遊んだが、夕方になると彼の母親が、必ず夕食を食べて行けと言ってくれた。よく美味しいカレーライスや焼そばを食べさせてもらったものだ。 

彼とは中学時代まで同じ学校で過ごしたが、その後は互いに街を離れたので、もう長い間会ってはいない。元気にしているのだろうか…。 

おばさん、あの時のカレーライス、本当にありがとうございました。

655: 名無しさん 01/09/11 00:59 
>>654 
すごくいい話。

656: 名無しさん 01/09/11 01:46
2階のある家は金持ちと思ってたあの頃…。

657: 名無しさん 01/09/11 10:26
>>656 
わかるなぁ、それ。うらやましくてねぇ~ 。

うちは県営の集合住宅で2部屋しかなかったし、でもいち早く水洗トイレがあったから、逆に持ち家で2階建てに住んでる子にうらやましがられた。
 
あの頃は汲み取り多かったよね 

658: 名無しさん 01/09/11 15:57
トタン屋根、トイレもくみ取り式だった。おまけに雨漏りするから、天井には雨受けビニール袋…。 

風疹で学校休んだ時、好きだった女子が突然見舞いに来てさ~、嬉しかったけど、すっごく落ち込んだなぁ。だって花束なんていちばん似合わない家だったもん。

659: 名無しさん 01/09/12 11:31
>>658 
あなたの家には似合わなかったかもしれないが、あなたの心に似合う花束だったのです。 

683: 名無しさん 01/09/15 10:36 
しかし、このスレを読むと懐かしさでいっぱいになる。
 
親父のお使いでハイライト買いに行かされたんだけど、確か70円か80円だったと思う。アイスキャンデーが5円だったのを微かに覚えている。

676:  名無しさん 01/09/15 09:12
母が小6の時死んだ。

残された私、妹、父親。それからが地獄の始まりだった。 

父親仕事もせず、朝から安い酒飲んで私らをたたく、蹴る、の繰り返し。当然仕事しないからお金なくて、いっつもお腹すいてて。 

給食費も払ってもらえなかった。水も電気も止まって、ろうそく使うなんてしょっちゅう、水は歩いて3分位のタバコ屋まで(外に水道ひいてあった)こっそり汲みにいくんだけど、よくオバンに睨まれた。 

学校でお弁当の時は、お米もおかずもないから、お昼になるとトイレにずっといたり休んだり。妹はまだ小1になったばかりで、今思い出しても胸が張り裂けそうな位かわいそうだった。 

親戚近くにいたけど、冷たいもんだったなー。200円位のパン代も貸してくれなかった(返せるアテもなかったけど)。 

私の幼少は(妹も)暴力、空腹、虐め。

今は優しいダンナと、ささやかだけど人並みの生活しています。本当に今は幸せ。

692: 名無しさん 01/09/15 18:24
「給食費払えなくても食べさせてもらえる」「生活保護やその他あるだろう」と思うよね。でもさ、子供心に「給食代払ってないから食べてはいけないんだ」 と思って食べなかった子知ってるよ。 

当時の親も清貧とか思って、生活保護は受けたくない、人様にはお世話になりたくないって思ってる人多かったよ。 

693: 名無しさん 01/09/15 18:31
>>692
地域によって違うと思うよ。友だちに床が抜けかかってるような貧しいうちとか、給食費免除の子 
とかいたもの。 

大人になって土門拳の「筑豊の子どもた」見て、「げ~っこの子たちほぼ同世代じゃないっ!」 てショック受けた。

702: 名無しさん 01/09/15 23:02
>>693 
私も「筑豊の子どもたち」は大ショックでした。
 
あれが戦前・戦後すぐの写真ではなくて、1959年に撮影されたものだということに。

703: 693 01/09/15 23:09 
>>702
でしょ~。二人だけで暮らしている姉妹なんかね~、もう何て言っていいかわかんない。

今あの子たちどうしてるんだろう、幸せに暮らしているんだろうかって思うわよ。

715: 名無しさん 01/09/16 04:40 
あまり思い出したくないんですが「筑豊の子どもたち」の話題が出たので私も。
 
1961生まれ筑豊在住です。生まれは別のところですが、親父が事故死したため、1970年に両親の実家のある筑豊へ引っ越して来ました。 

既に炭坑は殆ど閉山していましたが、当時の小学校の同級生達の1割程度は炭坑住宅と呼ばれる長屋(だいたい2部屋、トイレは屋外にて共有)に住んでおり、そうでない家も上の書き込みと同様、またはそれ以下の暮らしは珍しくもありませんでした。

給食費が払えない、修学旅行に行けない、遠足や運動会に弁当を持って来れないという子供は、1クラスに4~5人は居たと思います。家庭科、図画工作などの教材なんかは、兄弟や近所のクラスの違う友達と使い回しです。 

世の中は、今考えると急速に豊かになっていった時代で、テレビを買った日、電話を引いた日、自転車を買ってもらった日、みんな鮮明に覚えています。

みんな貧乏だったんですよ。つい30年前の事なんです。我々より物質的に豊かな世代の方がネタだと思うのは仕方ありませんが・・・。 

母は生活費のために、工務店の下働き(日雇い人夫)に出ていました。

738: 名無しさん 01/09/17 02:52
>>715 
オレも筑豊のボタヤマ育ち。もしかしたら知り合いかもな。同級生だもん。
 
落盤事故で父親が死んだ子たちも、ヤマに年寄りや家族と残ってたよな。そんな家は近所中で支えあって、みんな共同生活みたいなもんだった。 

台所なんかなくてさ、外の七輪で魚焼いたり茶碗洗ったり。ご飯炊き始めると、メシ食えない家の子供が茶碗持ってスーッと寄ってくる。みんな何も言わないで分けてやってたよ。貧しいのは一緒だったからね。 

酒飲みのおっちゃん達の喧嘩なんかしょっちゅうでさー。ウチもオヤジが酒乱だったから、家の戸がいつも壊れてた。 

人員交代のサイレンの音とか、いまでも夢に出てくるよ。

筑豊のこどもたち
土門 拳
築地書館
1977-07-21


710: 名無しさん 01/09/15 23:48 
実際の話、今現在の今日でもちょっと外れた場所にいくと、本当に古くて汚い木造平屋の住宅が多数存在していることを考えると、 あの平屋に住む子供たちの貧乏は現在進行だと思われます。

具体的に地名を出すのは控えますが。

714: 名無しさん 01/09/16 03:57
>>710 
未だに壁&屋根ががトタンの家見かけるよね。 

私が幼稚園の頃の近くの長屋には、は養子に貰った男の子が17で家出をしてしまい、二人で屋台の「おでん」を引き売りしている老夫婦がいた。よく仕込みしている時に10円を持ってはんぺんを買いに行った。
 
とても優しい老夫婦だったので、母親から事情を聞いて子供心ながらせつなかった。 

その後引っ越してしまったが、養子の子は戻って来てくれたのだろうか?

713: 名無しさん 01/09/16 01:49
私は1968年生まれだけど、同級生の中には、両親と5人兄弟で文化住宅に住み、兄弟全員で新聞配達をしている子とか、同じく文化住宅に住んでいて、小学校高学年になるまで電話がなかった子とかいました。 

私は公団住宅住まいだったけど、親が衣装代をケチる人で、中学・高校の制服も普段着も全て、一昔前のお古(母や親戚・近所の人のです)を着せられていました。それでいじめ・からかいの対象になったりしていました。 

流行の服でこぎれいにしている子達がひたすらうらやましかったです。

718: 名無しさん 01/09/16 08:44
地域による格差って絶対あったな。

719: 名無しさん 01/09/16 09:15 
消防の頃、近くの保育園へ配達されていたヤクルトを盗んで飲んだのはオイラです。許してくれぇ。

オイラの田舎じゃクラスで裕福だなと思ったのは、医者の息子ぐらいだった。

720: 名無しさん 01/09/16 10:12
うちが貧乏だったのは消防の3年ぐらいまでか。

徐々暮らしに余裕が出来てきた。でも、その頃は他の家も暮らし向きがよくなっていた。厨房の頃になると、貧乏と言える家は数少なかったね。 

今から考えれば一番いい時代だったと思うのはオヤジになった証拠?

721: 名無しさん 01/09/16 11:42 
>>720 
親の気持ちが今頃解かるんだよね。

724: 名無しさん 01/09/16 13:01
>>721 
本当に…。このスレを読んであの頃を思うと「親を大切にしないと」と、つくづく感じる今日この頃。歳とったな。

723: 名無しさん 01/09/16 11:58
俺は昭和50年9月に市営アパートに移ってから暮らし向きが良くなった。

なにより畳が新しいし、水洗トイレがついていたことに感動した。周りは自然環境抜群。裏山にクワガタをよく獲りに行ったものだ。エレベーターホールにもよくクワガタが来てたなあ。

でも小学校の環境は最悪で、シンナー常習者がうようよいた。シンナー厨房(隣の中学)が体育の授業中、グラウンドによく乱入してきた。厨房とは思えないんだなこいつら。これがマスクしてやがった。

その頃、その時代っていうのは、これは全国共通かもしれないが、牛乳パックを人にぶつけるのが流行っていて、俺が消防6年の時、厨房3年の不良グループに思いっきり牛乳パックぶつけられて、臭い思いをしたことがあったけな。

いやーな思い出だな。 

722: 名無しさん 01/09/16 11:56 
戦後13年目の生まれだと、傷痍軍人(似非)の物乞いも見たし、初めてTVが我が家に来る日もみたし、給食費を払えない子が苛められるのもしょっちゅう見てた。
 
何も出来ない自分が一番無力に思えてた頃。周囲の見えない馬鹿もいるみたいだけど、のび太の家が裕福だと思える時代だった。 

隣の家は連れ込み旅館で、周囲は原爆スラムと呼ばれた川縁の家並み。自分ちが裕福に思える頃だった(決して裕福ではなかった)。

うちらの年代で広島に生まれた者の多くは、貧乏話を嫌う者が多い。このスレに書いてある以上の事が日常に目に飛び込んできてたから。

730: 名無しさん 01/09/16 21:06
>>722 
原爆スラムは70年代以降に取り壊されましたね。 

火事があると確実に2桁の家が焼けていました。しかし1週間後には元通りのスラムになる。壁とは名ばかりで、薄い板1枚が家の内と外とを隔てていました。
 
冬はすきま風が入ってきて寒いこと甚だしい。水道は屋外にあって、数軒で共用する。路地は迷路のようになってしまっていて、迷子になってしまったこともありました。 

>うちらの年代で広島に生まれた者の多くは、貧乏話を嫌う者が多い。 
そうですね。私もまさにトラウマになっています。

724: 名無しさん 01/09/16 13:01 I
>>722 
買い物に行くと良く見たよ、足が無くてアコーディオン演奏してる傷痍軍人。かわいそうだとは思っても凄く怖かった。かなり後になってから親から「偽物も多かった」と聞き、憤慨&少しほっとした 

アメリカのホームドラマを見て、「あんな暮らしがしたい」と憧れていた年代だよね。でも未だにあれほどの暮らしは出来て無いや。

私は「わんぱくフリッパー」を見てイルカと暮らしたいと思っていたからできっこないけどさ。 

725: 名無しさん 01/09/16 13:16 
>>722 
僕も小さい頃、お祭りの露天が立ち並ぶ中に、傷痍軍人を見かけたことがあります。
 
アコーディオンやハーモニカを演奏する人。何もしないでただただ立っている人。連れて行ったくれた祖父が「ニセ者だよ」と教えてくれたけど、そういう「異形」の人を見たことがなかったので、強烈な印象になって残ってます。

729: 名無しさん 01/09/16 18:43
傷痍軍人は私も見たことがある。

幼稚園くらいの時に、祖母にお彼岸に四天王寺(大阪)に連れていかれたら、包帯巻いたりしたエジプトのミイラみたいな人がいた!(戦後10数年たっていた筈)。 

祖母に「あの人ら、何?」って訊いたら、「あれは偽物や。第一もう10何年もたって、いまだにあんなことして。お乞食さんや」と普段はとても優しい人が、吐き捨てるように答えたのが印象深かった。

726: 名無しさん 01/09/16 13:54 I
昭和37生まれ、中学まで東京下町で育った。 

ここに書かれているような事は身近に沢山あった。河川敷にはそこらじゅうにバラックが建っていて、そこから学校に通っていた子もいた。当時の貧富の貧はとてつもなく底が深かったと思う。 

ここのスレを読んでいるうちに、消えかけていた記憶が次々とよみがえってきて、涙してしまった。貧乏だろうが何だろうが、あんなに夢中になって遊べる事はもう無いだろう。

731: 名無しさん 01/09/16 21:21
1970年ごろ、祖父が経営するアパートに一家5人で住んででいた。 

風呂が無かったので、祖父の家に「貰い湯」に行くのが常だった。

732: 名無しさん 01/09/16 21:34 
家が貧乏だから小遣いが貰えなかった。それに気がついた以後も別に気にせず、「うち貧乏なんだって~」と友達に言いふらしていた、アイタタな自分・・・。 

苦労したんだろな、親たち・・・。 

741: 名無しさん 01/09/17 15:09
1970生まれ。私は家に自分の部屋がないのが嫌だった。 

友達はみんな「自分の部屋」があるのに、私にはなかった。2Kの市営団地だった。寝る部屋に机なんか置いてあったけど、自分の部屋というわけではなかった。
 
その部屋には親のタンスとかいくつも置いてあったので、親が頻繁に出入りするからプライバシーって言うものがなかった。子供の頃はまだ良かったが、ある程度の年齢になってくるとそれが嫌で仕方がなかった。人なんか絶対に家に呼べなかった。 

親が寝てる部屋に電話があって、今みたいに携帯とかなかったから、夜電話する時とか、親に聞かれたくない電話の時は公衆電話に行ってかけていた。

745: 名無しさん 01/09/17 16:59 
父子家庭で10才~13才まで親戚の家に身を寄せてた。でも、その家も貧乏でいい思い出なんてほとんどない。 

一度だけ友達を呼んだら、「表札が違うね~」って一言…。

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