沖縄根拠地隊司令官大田実中将が海軍次官に宛てた電報。

「左ノ電文ヲ次官二御通報方取計(とりはからい)ヲ得度(えたし) 

沖縄県民ノ実情二関シテハ県知事ヨリ報告セラルヘキモ 県ニハ既二通信力ナク 32軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非(あら)サレトモ 現状ヲ看過(かんか)スルニ忍ヒス 之二代ツチ緊急御通知申シ上クーー 

ーー若キ婦人ハ率先軍二身ヲ捧ケ 看護婦烹飯婦ハモトヨリ砲弾運ヒ挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ 所詮(しょせん)  敵来リナハ老人子供ハ殺サレルヘク 婦女子ハ後方二運ヒ去ラレテ毒牙二供セラルヘシトテ 親子生別レ 娘ヲ軍衛門二捨ツル親アリ 看護婦二至リテハ軍移動二際シ 衛生兵既二出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテーー 

ーー沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民二対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲーー 」

※現代語訳:
沖縄県民の実情に関しては本来は県知事が報告すべき事であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余力はないと思われるので、本職は県知事から依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。

若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろんのこと、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。所詮敵が来たら老人子供は殺されるだろうし、女性は連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、親子生き別れを決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした身寄りのない重傷者の看護を続けている。

沖縄県民はこのように戦い抜いた。県民に対し、後世特別のご配慮を頂きたくお願いする。

まとめ:戦争の泣ける話

1945年(昭和20年)6月13日、大田中将はこの電報を打った直後、海軍壕内で拳銃で自決。享年54歳。

大田中将の三男である落合畯(おちあいたおさ)さんは奇しくも海上自衛官となり、湾岸戦争後の1991年、自衛隊初の海外任務となったペルシャ湾の機雷除去に派遣された掃海艇部隊を指揮…。

10人の兄弟がおり、長兄大田英雄は社会科教師で平和運動家。弟の大田豊は元海上自衛官(最終階級は一等海佐)。父親の大田実は長男を軍人にしたいと願い、いずれ海軍大将になってほしいとの願いから「英雄」と名づけた。一方、三男には農業をして家を守ってほしいと「畯」(たおさ)と名づけた。しかし2人は戦後、まったく別の道を歩むことになった。

畯がペルシャ湾へ派遣される際、兄の大田英雄が、出港の5時間前に突然、旗艦であった掃海母艦はやせの司令官室を訪問した。畯が上官に「これがかつて有名な反戦教師です」と紹介して笑いを誘うと、兄は「お前も平和が目的だろ。一人も殺さず帰って来い」と切り返した。

兄とはまったく別の道を歩いたことから、お互い呉に住んでいたころはよく口論をしていたという。一方で、自分と兄とを対比するように語られることを嫌い、「富士山に登るにはいくつも道がある。兄とは道は違うが目指すものは同じだ」とも語っていた。(wiki:落合たおさ)