1999年3月23日、能登半島沖にて北朝鮮の不審船が領海侵犯。海上保安庁は、巡視船艇15隻および航空機12機を動員し、海保所属の「ちくぜん」「はまゆき」「なおづき」が威嚇射撃するも不審船は停船せず、挑発するように逃走を続けた。
「海上保安庁の能力を超えている」との判断から、海上自衛隊発足以来初のROE(交戦規定)となる防衛庁長官名の命令書「部隊の取るべき措置標準」を受け取り、海自艦「みょうこう」及び「はるな」は搭載している速射砲で25回、35発の警告射撃を実施した。
3時20分から5時41分にかけ、上空から飛来した八戸のP-3C 3機が、巨大な水しぶきにより水の壁を作り、水の力で不審船を停船させるため、150キロ対潜爆弾12発を投下する警告爆撃を行った。
不審船からの地対空ミサイルによる攻撃を防ぐため、現場判断で、爆弾投下を行うP-3Cと不審船の間に、監視目的で飛行していた無防備のE-2C僚機が割り込み、命懸けで盾となる飛行を行った。
護衛艦「みょうこう」では、不審船に接近し立ち入り検査を行うこととなった。艦長命令により、航海長を指揮官とする臨検部署が臨時に発令され、臨検要員が選出された。
「犠牲やむなし」
近接戦闘を想定していない当時の海上自衛隊では、艦内に防弾チョッキの備えはなく、救命胴衣の上から分厚いマンガ本をガムテープでぐるぐる巻きにし、防弾チョッキ代わりにした。万が一に備え、仲間に別れを告げた隊員もいたという。
「頑張れ!ガンバレ!」
ガムテープでぐるぐる巻きにした救命胴衣には、マジックで仲間からの激励の言葉が書かれていた。臨検に備えて、臨検要員全員に艦内に備え付けの拳銃が配られた。拳銃の射撃訓練を受けているものの、当時の海上自衛官には近接戦闘・近接格闘に精通している者はいなかった。
「航海長、お世話になりました。行ってきます。後はお願いします」
【まとめ:戦争の泣ける話・その10】より
あれから20年…海保の警備救難協議全国大会では、制圧の部、けん銃の部、人命救助の部の各競技が行われ、制圧の部では「警棒対警棒」「徒手対徒手」のほか「徒手対短刀」「警棒対短刀及び警棒対警杖」の実戦を想定した競技も…。
20年前に足りなかったテロ対策に必須の技術、近接戦闘、近接格闘…海保の皆様、今日もご苦労様です…海自の皆様もご苦労様です…(`・ω・´)…!
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