発掘系まとめ

10年以上前のスレをあつめています。長編・読み物系が多いです。昔懐かしいまとめ。2000年前後。あと動画!

    戦争

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    【その15】
    桜花

    835: 名無しさん 2001/06/25 15:21
    昭和20年8月18日(第二次世界大戦が終わって3日目)午前8時頃、西川中尉は岩村田国民学校に遺書を投下すると、お父さんの生まれた中佐都村、お母さんの実家である御牧村(現浅科村)、 自分の母校野沢中学校(現野沢北高等学校)上空を旋回し、北に進路をとって浅間山外輪山の前掛山南斜面に激突した。 【【哀悼】戦争の泣ける話【その16(完)】】の続きを読む

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    【その14】
    桜花

    830: 名無しさん 2001/06/25 03:20
    アッツ島玉砕のときの、昭和天皇の電報の話ってどういうのですか?
    【【哀悼】戦争の泣ける話【その15】】の続きを読む

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    781: 名無しさん 2001/06/19 01:06
    「ホタル帰る」草思社 ヨリ 

    第四五振武隊隊長藤井一中尉は、特攻出撃も終わりに近い五月二十八日、部下を率いて出撃、還らぬ人となった。

    富屋
    (特攻隊員が通った食堂)を訪れたであろう藤井中尉について、トメは年長の物静かな人がいたという以外にとくに印象がなかった。戦後、藤井中尉にまつわる話を聞いたトメは涙が止まらなかった。 

    戦争が始まった頃、藤井中尉は少年飛行兵の教官に就任した。彼は自分にも厳しい人で、戦争が激化し、かつての部下だった少年兵たちの戦死の報を聞くにつれ、「おまえたちだけを死なせるわけにはいかん」が口癖になり、自ら特攻兵を志願した。 

    藤井中尉は年齢的にも若くなく、結婚してすでに二児があった。こうした年長で係累の多い将校などの場合、特攻としては採用されないのが原則である。当然のように藤井中尉の志願は却下された。

    しかし、「教え子が死んでくのに自分だけがおめおめと生きているわけにはいかない」という彼の信念は変わらなかった。
     
    妻は最初は反対したが、次第に夫の固い覚悟に押し切られるかたちになった。夫は再度却下されると、今度は血書して願書を提出した。

    夫の決意の固さを知った妻は、後顧の憂いを絶つために、昭和十九年十二月十五日、近くを流れる荒川に、二人の子を道連れに投身自殺した。

    自分たちが生きていては心残りとなるでしょうから、お先に行って待っています、という遺書が残されていた。 

    血書の願書に妻子の自殺―藤井中尉の特攻志願は受理された。十二月二十日のことであった。 


    合掌
    【【哀悼】戦争の泣ける話【その14】】の続きを読む

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    【その12】
    桜花

    742: 名無しさん 2001/06/17 09:44
    茂木三郎少尉 「特攻出撃に際して」 

    福島県出身 予科練乙飛第18期生 
    神風特別攻撃隊第5神剣隊 
    昭和20年5月4日沖縄周辺にて特攻戦死 19歳 

    僕はもうお母さんの顔を見られなくなるかもしれない。 
    お母さん、よく顔を見せてください。 

    しかし、僕は何んにも「カタミ」を残したくないんです。
    十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見てお母さんを泣かせるからです。
     
    お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。 

    それが僕の別れのあいさつです。
    【【哀悼】戦争の泣ける話【その13】】の続きを読む

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    【その11】
    桜花

    650: 名無しさん 2001/06/07 17:52
    沖縄へ出撃する大和には、35名の少尉候補生が乗艦していたが、作戦の重要性から考えて、有賀艦長は彼らを退艦させることにした。 

    しかし候補生たちは決死の覚悟をしていたので、なんとか沖縄まで連れて行って欲しいと、執拗に食い下がった。そこで、能村副長が彼らを説得した言葉。 

    「…誠に忍びないことではあろうが、艦長の言われる通り、いさぎよく下りることが、一番よいと思う。征く我々が国の為なら、残るお前たちも国の為なのである。大きな気持ちをもって、考えてもらいたい」

    「…勉強して、帝国海軍を背負ってたつ、立派な士官になってくれ」
    【【哀悼】戦争の泣ける話【その12】】の続きを読む

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    【その10】
    桜花

    613: 名無しさん 2001/06/04 17:40
    東郷元帥、日本海海戦で負傷した、ロシアバルチック艦隊司令長官、ロジェストウィンスキーを見舞う。 

    東郷元帥 
    「はるばるロシアの遠いところから回航して来られましたのに、武運は閣下に利あらず御奮戦の甲斐なく、非常な重傷を負われました。今日ここでお会い申すことについて心からご同情つかまつります」。

    「われら武人はもとより祖国のために生命を賭けますが、私怨などあるべきはずがありません。ねがわくば十二分にご療養下され、一日もはやく ご全癒くださることをお祈りします(略)」 


    ロジェストウィンスキー(涙をにじませながら)
    「 私は閣下のような人に敗れたことで、わずかに自らを慰めます」
    【【哀悼】戦争の泣ける話【その11】】の続きを読む

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    【その9】
    桜花

    479: 名無しさん 2001/05/18 02:09
    松尾敬宇海軍中佐 熊本県出身  海軍兵学校第66期 
    昭和17年5月31日歿、満24歳 

    憂国の烈士・三島由紀夫は「行動学入門」の中に、“行動の美の典型”として「オーストラリアで特殊潜航艇が敵艦に衝突直前に浮上し、敵の一斉射撃を浴びようとしたときに、月の明るい夜のことであったがハッチの扉をあけて日本刀を持った将校がそこから現れ、日本刀を振りかざしたまま身に数弾を浴びて戦死したという話が伝えられている」

    「このような場合にその行動の美しさ、月の光、ロマンチックな情景、悲壮感、それと行動様式自体の内面的な美しさとが完全に一致する。しかしこのような一致した美は人の一生に一度あることはおろか歴史の上にもそう何度となくあらわれるものではない」 と記した。 

    この海軍士官こそ、殉忠菊池氏の流れをくむ熊本県山鹿市出身の松尾敬宇中佐(当時大尉)その人なのである。中佐は真珠湾攻撃に次ぐ第二次特別攻撃隊員として、遠くシドニー港の奥深く突入、壮烈な戦死をとげた。
    【【哀悼】戦争の泣ける話【その10】】の続きを読む

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    438: 名無しさん 2001/05/15 02:15
    全然有名な話ではないけど聞いてくれ。 

    オレのおじいちゃんは戦争末期、南方にいた。国名は忘れたけど、とにかくジャングルのようなところで、衛生状態が最悪だったらしい。当然マラリアだのコレラだのが蔓延する。おじいちゃんの部隊も例外ではなく、バタバタと人が倒れていったそうだ。 

    ただ、その頃には治療薬も開発されていて、それを飲んで命を永らえた人も多かったらしい。治療班に手渡されていた薬で何人かの人が助かったそうな。しばらくして、おじいちゃんが期せずして高熱にうなされるようになった。病気に感染したのだ。

    一方で、おじいちゃんの部下の1人にも同じような症状が襲った。二人とも薬を飲めば助かる程度のものであったらしいが、なんとその部隊には残余薬が一つしかなかった。 

    部下は「あなたが飲んでください、あなたがこの部隊の指揮官ですから」 と、搾り出すような声で言ったらしい。立派な部下を持ったおじいちゃんは幸せな人間だったと、おこがましいけどオレは思う。しかしおじいちゃんはたった一言こう言ったらしい。 

    「貴様飲め!」 

    おじいちゃんはその後間もなくして死んでしまった。 

    この話は、つい最近死んだおばあちゃんから何度も聞いた。

    薬を飲んで生き残って帰国した兵隊さんは、その後おばあちゃんをなにかにつけ助けてくれたらしい。オレも一度だけお会いしたことがある。まっすぐで立派な男だった。おじいちゃんも素晴らしい命を救ったものだ。 

    おばあちゃんの口癖は「貴様…って、いい言葉ね…」 だった。おじいちゃんの死後、もう何十年も経つのに、毎日毎日仏壇のおじいちゃんに話し掛けていた。そして眠ったまま死んでいった。 

    明治の人間はすごい。オレはいつもそう思う。
    【【哀悼】戦争の泣ける話【その9】】の続きを読む

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    【その7】
    桜花

    427: 名無しさん 2001/05/11 00:16
    女子勤労奉仕隊員の記録(ある女学生の日記)

    昭和二十年三月二十七日
    作業準備をして学校へ行く。先生より突然特攻隊の給仕に行きますとのこと。びつくりして制服にきかへ兵舎まで歩いて行く。はじめて三角兵舎にきてどこもここも珍しいものばかり。今日一日特攻隊の方々のお部屋の作り方。

    こんなせま苦しい所で生活なさるのだと思つたとき、私達はぶくぶくした布団に休むのが恥づかしい位だつた。わら布団に毛布だけ、そして狭い所に再びかへらぬお兄様方が明日の出撃を待つて休まれるのだと思ふと感激で一杯だった。五時半かへる。
    【【哀悼】戦争の泣ける話【その8】】の続きを読む

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    【その6】
    桜花

    327: 名無しさん 2001/04/29 02:21
    山本五十六の参謀だった宇垣纏は、九州で神風特別攻撃隊を指揮していたが、玉音放送を聞き、部下への詫びと死に場所として、米軍占領下の沖縄へ彗星で特攻した。 

    一緒に付いて行った者がかなりいたそうだ。
    【【哀悼】戦争の泣ける話【その7】】の続きを読む

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    【その5】
    桜花

    283:名無しさん 2001/04/17 23:05
    沖縄防衛を担当していた第32軍の長参謀長と司令官牛島満。

    …こうして最後の時が来た。はじめは「23日黎明を期して、全員、摩文仁(まぶに)方面に突撃し、この間に軍司令官、参謀長は山頂において自決する」と予定されていたが、摩文仁の山頂奪取は不可能と判断され、司令部洞窟の入口で、古武士の型をふんで切腹することになった。 

    「閣下、私が先に行って、ご案内いたしましょう」と、一足先に坑外に出た長参謀長が、振り返りながら言った。 

    「いや、私が先に行かしてもらうよ」 牛島はおだやかな微笑を浮かべていう。

    「あ、なるほど、私では案内になりませんな。閣下は極楽行き、私は地獄行き。こう行き先が違っていては…」 

    長は軽く声をあげて笑った…。 
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    【その4】
    桜花

    233: 名無しさん 2001/04/13 21:32
    和田稔(人間魚雷「回天」特攻隊員・家族あての遺留ノート、1943.10.3) 

    昨日兵役の細目が発表された。 

    若菜(妹)、私は今、私の青春の真昼間を私の国に捧げる。 

    私の望んだ花はついに地上に開くことがなかった。とはいえ私は、私の根底からの叫喚によって、きっと一つのより透明な、より美しい大華を大空に咲きこぼれさすことが出来るだろう。 

    私の柩の前に唱えられるものは私の青春の挽歌ではなく、私の青春への頌歌であってほしい。
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    桜花

    174: 名無し 2001/04/08 11:30
    水上特攻に出た大和以下第二艦隊とすれ違った日本輸送船とのやりとり。 

    数隻の小輸送船団「御成功祈ル」 

    大和「ワレ期待ニ背カザルベシ」
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    【その2】
    桜花

    100: 名無しさん 2001/04/01 00:33
    陸軍衛生伍長 伊藤 甲子美命 二十六歳 
    マリアナ島にて戦死 

    季代子 かう呼びかけるのも最後になりました。

    短かつたけど優しい妻でした。有り難く御礼申し上げます。まこと奇しき縁でしたけど、初めて幸福が訪れた様な気がして嬉しく思つていました。折角永遠の誓ひを致しながら最後になりますのは、何かしら心残りですけど、陛下の御盾として果てる事は、私にとりましても光栄と存じます。 

    短い生活で、もう未亡人と呼ばれる身を偲ぶとき、申し訳なく死に切れない苦しみが致しますが、すでに覚悟しての事、運命として諦めて頂きたいと思ひます。若い身空で未亡人として果てる事は、決して幸福ではありませんから佳き同伴者を求めて下さい。

    私は唯、幸福な生活をして頂きますれば、どんな方法を選ばれませうとも決して悲しみません。

    さやうなら季代子、何一つの取り柄のない夫を持つて、さぞ肩身の狭き思ひで有りませう。至らない身、お詫びを致します。 

    何日の日か幸福な妻にさして上げたく思ひ乍
    (なが)ら、その機会もなく心残りでなりません。どうぞ御健やかに御暮らし下さいます様、お祈り致しています。さやうなら。 

    昭和十九年五月三日 伊藤 甲子美 

    季代子様 
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    【その1】
    桜花

    33: 名無しさん 2001/03/23 19:29
    菊水隊イ36潜、イ37潜、イ47潜、昭和19年11月8日出撃。

    佐藤章 妻への手紙 

    まりゑ殿 

    かねて覚悟し念願していた「海い征かば」の名誉の出発の日が来た。日本男子として皇国の運命を背負って立つは当然のことではあるが然しこれで「俺も日本男子」だぞと、自覚の念を強うして非常にうれしい。 

    短い間ではあったが、心からのお世話になった。俺にとっては日本一の妻であった。 

    小生は何処に居らうとも、君の身辺を守っている。正しい道を正しく直く生き抜いてくれ。 

    子供も、唯堂々と育て上げてくれ。所謂偉くすることもいらぬ。金持ちにする必要もない。日本の運命を負って地下百尺の捨石となる男子を育て上げよ、小生も立派に死んでくる。 

    充分体に気をつけて栄へ行く日本の姿を小生の姿と思いつつ強く正しく生き抜いてくれ。 

    大東亜戦争に出陣するに際して 

    昭和十八年九月二十一日 

    章 

    まりゑ殿
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